CINEMA STUDIO28

2013-04-25

Petit tailleur

 

アンスティテュ・フランセにて。ルイ・ガレルが監督した44分の映画「小さな仕立屋」堪能。フィリップ・ガレルの息子の、彫刻みたいに美しい彼。噂の若手女優レア・セドゥが出てる。この2人は「美しいひと」で共演してた。今回は監督と女優という関係。小さな仕立屋で跡継ぎとして期待される若い男が、若い女と出会い、恋に耽るが故に仕立屋仕事といつしか天秤にかけ・・という物語。
 
 
モノクロで捉えられた2010年のパリは現代か過去なのか一目ではわかりにくい。去年の秋、恵比寿の写真美術館の前にあるドアノー「市庁舎前のキス」を指さして、一緒にいた人と「この写真が好き」と意見は一致したのだけど、その人が好きな理由を「瞬間瞬間が、一回性のものだと思い知らされる。永遠に戻らない瞬間の儚さが捉えられた写真」と言ったのを、ふうん。って聞きつつ、でもパリってこれだけ前の写真でも全然変わらないし、こういう感じで市庁舎前でキスしてるカップルっていつでもいるし、これが現代に撮られたって言われても驚かないけどな。って心の中で思ったことを思い出した。私にとってのモノクロのパリはそれ自体が永遠をはらんでるのかもね。2010年ルイ・ガレルの撮ったパリはヌーヴェルヴァーグにも通じるし、それ以前の映画にも通じるのかもしれない。
 
 
レア・セドゥ演じる蠱惑的な女を前にして、仕立屋はいかにも不器用に見えた。反射的にトリュフォーの「柔らかい肌」を思い出す。飛行機で乗客とスチュワーデスという間柄で知り合い不倫の恋に落ちる男女の物語だったが、男の細かい行動がいちいち鈍臭く、不倫を狡猾にやり過ごせるように見えない・・と思っていたら悲惨な結末が待っているのだ。例えば冒頭、離陸が近づき、男は煙草を消すように言われるのだが、すぐには消さず、しぶとく吸っている。注意されてすぐ消すような男であれば、不倫もきっとうまくやり過ごすのではないか。例えば街中でのデートの場面。踊る女の可愛さに、男はその先を期待してホテルを探すため店にある電話帳をにやけた顔でめくる。男が選んだのは人目を避けるような場末の安ホテル。うらぶれた場所に煌めいたフランソワーズ・ドルレアックはいかにも不似合いである。あの場面であんなホテルを選ばない男であれば、不倫もきっとうまくやり過ごすのではないか。
 
 
小さな仕立屋は、女が寝ている間に身体のサイズを測り、彼女にぴったりのドレスを仕立て上げる。しかし、そのドレスがオリジナルではなくコピーなのはいただけない。それがコピーであると女に打ち明けるのはさらにいただけない。メトロが苦手でいつもパリじゅうを走っているが、ここぞという急ぎの場面で、その流儀を変えられないのもいただけない。多くのヌーヴェルヴァーグの映画の結末のように、ほろ苦さが残るあたりも、ルイ・ガレルはヌーヴェルヴァーグの正当な末裔であることを証明する44分。
 
 
 
 
それにしてもレア・セドゥの美しさ。PRADAの映像が話題になってるけど、モードを着てニコニコするレア・セドゥは本領発揮していないように思える。「美しいひと」以来、レア・セドゥのレア・セドゥらしさをふんだんに引き出したルイ・ガレルはきっと、女を見る目があるのだろう。

 

2013-04-24

Les herbes folles

 
 
ギンレイホールで。アラン・レネ「風にそよぐ草」を観る。忙しかった週の週末の朝イチの回で観たせいか、頭がまるで起動しておらず、アラン・レネ・・アラン・レネ・・・何の人だったっけ。って巨匠の煌めくお仕事群もすっかり忘れて見始め、何だこれは何だこれはと唸ってるうち、あ、そうか、マリエンバートの人!って思い出して、展開の不条理っぷりも腑に落ちた。日本で公開されるフランス映画ってはるばる海を越える過程で様々なふるいにかけられるのか、メジャーなものほど退屈で、マイナー扱いされる映画のほうがフランス映画の奇妙なエッセンスが濃いと思うのだけど、年に数本出会えるか出会えないか、の、濃い映画に偶然出くわしてしまったよ、寝ぼけ頭で。
 
 
ギンレイホールの作品紹介は「駐車場の隅に捨てられたバッグを拾ったジョルジュ。中の財布に入っていた小型飛行機操縦免許の写真を見て、持ち主の女性マルグリットに夢中になってしまう・・・ ひょんなことから出会った男女の奇妙な関係を描いた巨匠アラン・レネ監督による大人のラブ・ストーリー!」とのこと。ま、確かにそうなんだけど、ポスターの電話をかけあう妙齢の男女・・から妄想するに、奇妙っても限度があって、ちょっと小気味いい程度の奇妙さ加減で、伴侶と死に別れたり何だったりで独り者同士の男女がぎこちないながらも徐々に心を開いてく。みたいなハートウォーミングな展開じゃないの?ってタカをくくってたんだけど、さすがにアラン・レネ。想像の遙か斜め上をものすごい速度で飛行していく物語なのであった。フランス版のこのポスターのシュールな絵のほうが、よほど映画に近い。
 
 
思い返してみると冒頭のシーンから奇妙さは漂っていた。「女はバッグをスリに奪われた」って状況説明だけでいいはずなのに、彼女がMARC JACOBSの店で悦に入った表情で靴を選ぶシーンがそれなりに長く続く。その後、駐車場で財布を発見する男の、駐車場にいる若い女たちへの暴力的なモノローグも背中がぞわっとする奇妙さ。仕事中の警官なのにやたら酔ってるマチュー・アマルリックも奇妙だし、話のどこにも背骨が見つからないまま最後まで暴走して墜落するのである。効果音も遊びまくり。男の妻や、女の友人など脇役たちの物語への絡み方も支離滅裂。
 
 
アラン・レネ89歳の作品らしい。オリヴェイラや鈴木清順が年々、作品の狂度を増していくのを若輩者として呆然と眺めつつ、どうしたらこんな飄々と、深刻な顔ばかりしたがる世間をケケケと嘲笑う粋な老人になれるのだろうか・・と映画の内容は脇に置いて、監督の人生に憧れを抱いてしまうのだけど、この作品によって憧れ老人リストにフランス代表、アラン・レネが追加された。
 
 
あ、この主役の女性は、趣味で飛行機を操縦するスキルがあり、操縦技術の高さとキャラクターから飛行場の男どもに非常に愛されている。奇妙なおっさんを追いかけるより、飛行場の男どもから愛する誰かを見つけるほうが、よほど彼女の幸せになりそうだと思ったのだけど・・そんなありきたりな物語じゃアラン・レネの映画にならないから、しょうがないね、きっと。

 

2013-04-22

Une vie de chat

 
 
アンスティテュ・フランセにて。今夏公開のフレンチアニメ「パリ猫ディノの夜」、日本で最初の試写を観ることができた。嬉しいな。父親を失ったショックから失語症になった少女と、少女の家の飼い猫ディノ。ディノはミステリアスな猫で、夜な夜な屋根づたいにどこかに出かけていく・・。
 
 
オスカーノミネートもされたアニメで、アニメ初の?フィルム・ノワール。ヨーロッパのアニメらしいニュアンスある色調の絵に、全編通じてJazzが効いており、声優として参加するフランスの名優たちに敬意を評して仏語の響きを楽しむために吹き替え版は製作しないらしい。「ママと娼婦」のことを考えていたので、ベルナデット・ラフォンが声の出演をしていたのに歓喜する。あの深く特徴ある声、久しぶりに聴いても印象はあまり変わらなかったな。
 
 
猫の柔らかい身体がくねくねとパリの屋根の上でうねり、エッフェル塔やセーヌ川といったパリのアイコンもばっちり登場、特にノートルダムのガーゴイルが舞台装置として絶妙な役割を果たしていた。暗闇のシーンもユニークで楽しかったし、女がつけすぎた香水が伏線となるあたりもフランスっぽい。画面と音がぴたっと合ってて最も好きだった、ビリー・ホリデイが流れるシーン、配給元がYOUTUBEにアップしててさすが。70分と手軽な時間だし、真夏の夜、大人がお酒片手に涼しい映画館で楽しむのが似合う。公開は7月とのこと。
 

 

2013-04-21

La maman et la putain ... encore!

 
 
アンスティテュでの「ママと娼婦」上映、周りで何人か行けた人がいるようで羨ましい。自分でも所有してるのを忘れてたけど、本棚を見たら貴重な日本語でのユスターシュ本を持ってた。2001年、エスクァイア・マガジン・ジャパンから出版からされた本。今は亡き出版社だし、この本も絶版であるからして、主演3人の貴重な「ママと娼婦」評をここにシェアしても・・いいはず。
 
 
---------------------------------------------------------------------------------------------------
 
 
ジャン・ユスターシュが「サンタクロースの眼は青い」に出てくれと言った時、僕は同時に、ジャン=リュック・ゴダールの「男性・女性」に出ていました。その後、彼は、僕を(そして自分を)念頭において「ママと娼婦」を書きました。一語一語、句読点たりともおろそかにしない、とても念入りに書き上げられた台本です。
 
このすばらしい、僕には映画史上最も美しい台本のひとつに思えた台本を、三ヶ月で丸暗記させられました。その後、撮影中に、彼はこの台詞を即興だと思わせようとしました。撮影現場で、俳優はいわゆる「恩寵に浴している状態」にありました。類まれな何かを撮っているんだと感じていました。
 
トリュフォーやゴダールと仕事をする時と同じように、天才の仕事に参加していると思えました。ジャンは僕に生涯最大の役のひとつを与えてくれました。この一発撮りの文無しの、「カイエ」(カイエ・デュ・シネマ)の仲間の資金援助を受けた映画でです。ジャンの映画のおかげで僕は今でも生き延び、仕事を続けることができているんです。
 
トリュフォーは僕の父、ゴダールは僕の叔父、ユスターシュは僕の兄です。
 
ジャン=ピエール・レオー(アレクサンドル役)
 
 
 
 
ユスターシュの才能がなければ、「ママと娼婦」は、若い男が二人の女のあいだをわたり歩くという、ありふれた救い難さの物語になっていたでしょう。彼が私たちに強いた、ときには耐え難いその緊張のなかで、私たちは、自分たちが何か比類ないものに関わっているんだと悟りました。
 
ジャンは、何よりも男女の関係がほしいんだ、それが政治と社会の本質なんだと繰り返し言いました。
 
来るべき世代が「ママと娼婦」に興味をもつだろうと、そして、もっと月並みな人たちも、この映画を70年代の記録とみなすだろうと信じています。私が一番好きなものはどれもそうですが、ジャンは、儲けが大きな比重を占め始める時代の一瞬の輝きです。
 
ベルナデット・ラフォン(マリー役)
 
 
---------------------------------------------------------------------------------------------------
 
ジャン・ユスターシュはフランスの第七芸術(映画)における一瞬の輝きでした。この独学者は、何にも頼らず、ヌーベル・ヴァーグのほとんどの監督のような有産階級の息子でもなく(それでも彼はダンディでした)、一本の比類のない、電撃的な映画を監督しました。私にとって「ママと娼婦」は、ムルナウの「サンライズ」と同格です。私は彼と、「ママと娼婦」以前に仕事をする機会がありました。
 
「ママと娼婦」は即興で作られた映画では決してありません。台詞や独白は必ず細かく書かれ、念入りに学習されていました。彼は実に手早く撮影しました。というのも、映像がすでに頭に入っていたからです。私たちは、撮影中、奇跡的で重要な何かが起きていると感じていました。とはいえ、特に珍しいことではありません。ごくあたりまえのことにすぎません。
 
俳優に対する彼の演技指導は音楽的なものでした。たとえば、私は、私の役のモデルになった女性の声を聞かされました。さらに「牝犬」や「ボヴァリー夫人」でジャン・ルノワールが演技指導した女優たちを参照させられました。
 
「ママと娼婦」はサイコドラマ(虚構の役になりきる精神療法的な心理劇)でもシネマ・ヴェリテ(ありのままの人物を見せる映画)でもありません。この映画には自然な優美さと映画のモラルがあります。この映画の台詞は私にとって、ラシーヌの台詞であると同時にセリーヌの台詞でもあるんです。
 
フランソワーズ・ルブラン(ヴェロニカ役)
 
 
---------------------------------------------------------------------------------------------------
 
長い間見直していないこの映画を、記憶の中で反芻してみると、ベルナデット・ラフォンのコメントが最もしっくりくる。「ジャンは、何よりも男女の関係がほしいんだ、それが政治と社会の本質なんだと繰り返し言いました。」
 
 
ユスターシュの私生活もふんだんに盛り込まれているらしいこの映画に登場する女性にはそれぞれ実在のモデルがおり、衣装係として参加していた女性は、ラッシュを観て彼女自身のあまりの描かれ方(「ママ」のモデルになった女性らしい)にショックを受け自殺、「ママと娼婦」は亡くなった彼女に捧げられている。

 

2013-04-09

La maman et la putain

 
 
アンスティテュ・フランセで4月、ジャン・ユスターシュ「ママと娼婦」がかかる!と知って狂喜乱舞したのはかなり前。手帳の4月のページにタイトルを書き、上映の詳細がわかるのを心待ちにしてた。
 
 
「ママと娼婦」は、我が人生の映画10本にランクインするであろう映画で、上映を常に追いかけてる。日本で観たことはまだない。
 
 
パリで観る機会あるかしら、と機会を待ってたけど、到着してすぐに行ったポンピドゥーでは到着直前までユスターシュ特集をやっていたのにタッチの差で逃したらしかった。悔しくて、パンフレットだけうらめしく貰ったり、(写真は全部2007年、パリにしばらく暮してた頃のもの。懐かし!)
 
 
 
 
後日、ポンピドゥーの本屋でシナリオ発見し、小躍りで即座にレジへ。適当すぎる仏語力のわりに貪り読んだり、
 
 
ロケ地巡り・・・と言うほどのわざわざ感もなく、普通に街を歩いてると見かけるメジャースポットではあるものの、
 
 
 
 
フロールもクーポールもその他の歴史豊かな能書き以上に私の中では「ママと娼婦」の舞台としてのフロールやクーポールであり、

 
 
・・・というしつこさで追いかけるうち冬が終わり春が来た後に夏までやってきてヴァカンスに突入、確か毎週水曜にパリ中の映画館の番組が入れ替わり、そのたびに上映検索で必ずチェックしていたら、帰国間際、もうパリで映画観るのも最後?というチャンスで上映発見!小躍りでカルチェラタンのCINEMA DU PANTHEONへ。
 
 
 
 
 
「ママと娼婦」は過去の日本での上映では、途中休憩時、会場は「・・・」と何ともやるせない空気に包まれたと聞いており、私自身も暗い部屋で三角座りで独り観る映画だと思ってたけど、パリでの上映は意外にもあちこちからクスクス笑いが漏れる和やかさ。レオー演じるアレクサンドルが何かと笑いを誘うようで、観客みんなで、本当にしょうがない子ね!と出来の悪い息子を見守る母親みたいな眼差しをスクリーンに向けていた・・!クスクスがMAXに達したのはアレクサンドルがベッドで「優しくされるのが好き?それとも激しく?」と問いかけるシーンだったことをここに記録しておく。私自身は、この映画に自分が惹かれる理由が、何度観てもよくわからないところが好きな理由だと思ってる。
 
 
そして・・ついに4月!東京での上映!と、発表されたスケジュールを興奮しつつ観てみると・・なんと金曜昼に1回のみ上映・・万難排したいけど槍が降っても仕事しなきゃなんない日だった・・・。金曜って祝日だっけ?ってカレンダー何度も見ちゃった。「ママと娼婦」は4月12日金曜、11時半から上映です。興味を持たれた方は飯田橋へ是非。ああああああああ、最後に流れるエディット・ピアフを東京で聴きたかった・・・
 

http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/cinema1304110414/

カラックスもロメールもベタ褒め。さすがに気が合うわ・・

 

2013-04-06

The Master


 
 
3月のこと。日比谷シャンテにて。ポール・トーマス・アンダーソン「ザ・マスター」を観る。新興宗教の教祖と、偶然の出会いから彼の宗教の一員となった男の物語。見終わった後のエレベーター(男性率高し)が「・・・」ってなんとも言えない空気漂い、途中退席して戻ってこない人もちらほら。楽しみにしてた私も、咀嚼しきれない肉の筋が歯の隙間に詰まったみたいな気持ち悪さを感じる。
 
 
それから何週間か、頭の中で気持ち悪さを転がしつつ、やんわり辿り着いた、あれってどういう映画だっけの解釈は、「冷血」を書いた際のカポーティの「僕と彼(冷血の題材となった殺人犯の男)は同じ家で生まれた。一方は裏口から、もう一方は表玄関から出た。」という言葉に近い。2人の男は2人で1人。
 
 
そして今日たまたま目にしたこの記事!
 
この映画を語るに日本で一番適した人かもしれない人のコメントで、短いけど味わい深すぎる。この映画について書かれた文章で、腑に落ちたのはこれだけ。
 
 
マスターを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンはさすがの安定感ながら、フィリップがキャスティングを提案したというホアキン・フェニックスにはあらゆる賞を贈呈してほしい。本人が要らねえよと言いそうだけど・・。ホアキン演じる男の演技なのか本人なのか境目不明な情緒不安定な佇まいがなければ、この映画は成立しない。加えて、マスターの妻のエイミー・アダムス!実は主役は彼女では?女の武器と男以上の男らしさをふんだんに駆使し宗教をマネジメントする女。最後の場面を観たとき、3人のうち、マスターたりうる資質があるのは彼女だけと思えた(ので、この画像↑を選択。男2人が虚空を見上げる中、男を従えるかのごとく中心にいる女の据わった目!)
 
 
監督の言葉にある「人は何かマスターという存在なしに生きられるか?」という問いには「・・・生きられるんじゃない?」としれっと答えてしまう依存心薄めの私、この映画は中長期検討課題として取り扱おうっと。

 

2013-04-04

Moonrise Kingdom

 
3月のこと。ウェス・アンダーソン「ムーンライズ・キングダム」を観る。
 
 
これまでアメリカの若手お洒落映画カテゴリーに放り込み、カテゴリーごと苦手意識があったけど(苦手意識の根元はおそらくソフィア・コッポラの映画が軒並みつまらないから・・)、同じカテゴリーに放り込んでたマイク・ミルズ「人生はビギナース」が意外にもとても良くて(良かった理由は監督でも評価の高かったゲイのお父さん役の人でもなく、主演の2人がもともととても好きな俳優だからだと思うのだけど)、お洒落な匂いがするからってまるごと嫌ってたらアカン!そんな姿勢じゃ観るべき映画を見逃す!と自分に言い聞かせる昨今、ウェス・アンダーソンは「ロイヤル・テネンバウムス」を観た当時いまひとつピンとこず、長らくチェックしてなかったけど、何度か映画館で観た予告編の可愛さにつられ、いそいそと日比谷シャンテへ。
 
 
開始10分で今までの苦手意識を撤回。60年代の写真集が奥行きをもって目の前で動いてるみたい。インテリアのすみずみまで、ビル・マーレイのゆったりしたおうちパンツの丈や皺のまでも完璧な計算。画面に見とれてるうち物語を追うのを忘れそうになって慌てた。女優に着せる洋服のセンスが良い映画監督は信頼できる。という自分内基準があるのだけど、女優の洋服どころの騒ぎではない。
 
 
 
 
ビル・マーレイの身長と天井の高さ、照明の位置まで狙いすましたみたいに完璧・・
 
 
 
この本棚! の上の胸像!表紙の色の配置!
 
 
 
 
少年の後ろのラックにかかった洋服の並びのバランス!
 
 
 
 

気をとりなおして物語を追うと、世にもかわいいボーイ・ミーツ・ガールもの。幼いふたりの駆け落ちの物語。はみ出し者みたいな少年だけど、マメに少女に手紙を送り、駆け落ちの待ち合わせには花束を持って登場、ボーイスカウトで鍛えた生存スキルで少女の衣食住をこまごまと世話をし、要所要所で愛の言葉をきっちり伝える。不思議ちゃんかと思えば、恋の成就のためのセオリーを抜け目なくおさえた全うな男っぷり。海辺で釣り針にコガネムシをつけたピアスをプレゼントするシーンが一番好き。この映画で一番エロティックなシーン。

 
 
 
 
絶対好きなはず!と友達に薦め、物語説明係として登場するキュートなニットキャップのおじいちゃんを気に入るんじゃないかなーって内心思ってたら、案の定、あのおじいちゃんが良かった!と。案の定すぎる。
 
 
しかしこの映画を好きな理由の大半が「完璧な美意識」だとしたら、どうしてソフィア・コッポラ映画は好きになれないのだろう。映画として退屈だから?「ムーンライズ・キングダム」は退屈ではなかった。と、その理由を考えるべく、食わず嫌いを反省したから、おとなしくウェス・アンダーソンのフィルモグラフィーを追うよ・・。