CINEMA STUDIO28

2013-11-29

Tonnerre



そうか。時間がポコッと空いたときに書きためて自動投稿にすればいいんだな。とりあえず東京は夜の9時に時報みたいに更新されます。どーん。


「遭難者」「女っ気なし」のギョーム・ブラック監督について続き。次回作についてのメモ。


・タイトルは「Tonnerre」、ブルゴーニュ地方にある街の名前で、ギョーム・ブラック監督の祖父母が住んでいた街らしい。映画は完成しており、ロカルノ映画祭に出品された。日本で配給されるかなあ。エタンチェで配給してほしいなあ。


・シルヴァンを演じたヴァンサン・マケーニュが引き続き出演。なんとロッカーの役。演じるために20kg近くダイエットしたとか。シルヴァン、よく見ると綺麗な顔してるから、髪型と体型を整えればぐっと素敵だと思いつつ「女っ気なし」観てた。


・シルヴァンの父親役になんとベルナール・メネズ!ロジエ「オルエットの方へ」で女たちをヴァカンス先まで追いかけてきて適当に扱われるあの男!「女っ気なし」はヴァカンスものの系譜としては確かにロメールやロジエのに延長線上にあるかもしれないけど、作風はだいぶ違うよね。と思ってはいたけど、ロジエ→ギョーム・ブラック監督へのベルナール・メネズを通じたバトンの受け渡しみたいで胸が熱くなる。


・「女っ気なし」思い出したことメモ。メールアドレスを聞かれたシルヴァンが答えた自分のアドレス 「sylvain80・・・」でクスクス笑った。シルヴァン、キャトルヴァンって韻を踏んでるんだもの。シルヴァン、80年生まれって設定なのかしら?あのアドレス、監督はきっとネタとして仕込んでシルヴァンにわざわざ声に出して言わせたと思うよ。映画の冒頭で「wifiある?」って質問させて「ここにはないけど、僕の家が近いから使いたいときは言ってね」ってセリフではった伏線もきっちり回収。


・パンフレットにあった監督のインタビューに、好きな/影響を受けた監督の名前に、ジャド・アパトーの名前が挙がってたのでメモ。監督作をちゃんと見られてないのだけど、これから制覇するとしてエマ・ストーン(大好き!)目当てで見たら大大傑作だった「スーパーバッド 童貞ウォーズ」の制作もジャド・アパトー。ギョーム・ブラック監督の口からジャド・アパトーの名前が出てとても嬉しい。




「女っ気なし」ではこんなんだったヴァンサン・マケーニュ。
マリーさんと一緒の私の好きなシーン。





ヴァンサン・マケーニュ、スカした写真バージョン。
あらま!雰囲気ある!役者オーラ!
フィリップ・ガレルのお気に入りでもあるらしく、観てるはずだけど存在を意識してなかった。
今かなりの売れっ子俳優らしい。





Tonnerre extrait!!







Bon week-end!

2013-11-28

Un monde sans femmes


ユーロスペースで。ギョーム・ブラック監督の短篇「遭難者」、中篇「女っ気なし」を観る。2本あわせて1時間少し、フランス北部のオルトという海辺の街で撮影され、シルヴァンという男が登場するシリーズのような構成。6月のフランス映画祭のチケットとる時、あらすじ読んで博打気分で観てみたら大当たり。6月の段階で今年のベスト1を予感した。


「遭難者」はロードバイクに乗った本気の自転車乗り男がパリから峠を越えてオルトにたどり着き、とんぼ帰りでその日のうちにパリに帰るつもりがタイヤがその日何度もパンクしたり、シルヴァンという男に話しかけられ時間を過ごすうちにパリに戻れなくなってしまう予期せぬオルト1泊2日の物語に、自転車乗りとその恋人の倦怠した関係が絡んでいく。短い物語ながら、自転車乗りの袋小路に迷い込んだような逃げられなさ・・・頭を空っぽにしたくてわざわざパリから遠くまで無心に自転車漕いできたのに、見知らぬ街で見知らぬ人々とふれあってる間に、逃げたはずの問題の中心に突入してしまった感って実際あるあるだし、続く「女っ気なし」の伏線としてオルトという街と、そこに住む普通の人々を紹介する予告編にもなっている。


映画祭のティーチインでの質疑応答は思わぬ方向から質問が飛ぶことあるあるだけど、「遭難者」では、パンクに苛立った男が自転車を放り投げる場面について「一般的に自転車は、軽ければ軽いほど高級と言われており、あれだけ軽々と放り投げられるということは撮影には高級な自転車が使われてると思うのだが、自転車乗りとしては心が痛むが、監督はどう考えるか?」と質問が飛び、ギョーム・ブラック監督がニヤリとしながら「実は僕も自転車乗りなんだ。あの放り投げた自転車は、僕自身のものなんだよ」と答えていたのが面白かった。


「遭難者」で好きなシーンは、シルヴァンが缶に入ったお菓子か何かを自分でまず1つとり、自転車乗りに薦めてふたりで無言でお菓子を食べるシーン。気まずさと突然芽生えた親密さと手持ちぶさたさと。それから、パン屋でパンを買いまくる自転車乗りに、パン屋にいる太ったおばさんが「そんなに食べちゃ私みたいになるわよ」と真顔で言うシーン。このおばさんは「女っ気なし」にも出てくるマリーさん。マリーさんがどうかは知らないけど、映画にはオルトで現実に生活している素人がたくさん登場しているらしい。


続く「女っ気なし」は、しょっぱなから「遭難者」のシルヴァンが「遭難者」の時と同じ服装で登場する。この物語では彼が主役で、「遭難者」で自転車乗りを受け入れたように、パリからヴァカンスにやってくる母娘を受け入れる。あからさまにセクシャルで開放的な若い母。そんな母にややうんざりしつつ、淡々と物静かな娘。オルトという街はパリからの距離の近さもあり20世紀前半には夏の保養地として非常に栄えたけれど、その後、天候の良い南仏に人気が移り、すっかり寂れてしまったとのこと。ずいぶん前、熱海に行ったとき壮大なゴーストタウン感に打ちのめされた気分になったけど、あれのもっと規模が小さく切ないバージョンか。


仏語タイトルのUN MONDE SANS FEMMES は「女のいない世界」という意味で、「女っ気なし」というのは素っ気なさも言い切り感も抜群の邦題。夜にはほとんどの店が閉まってしまい、若者は土曜の夜には死にたくなるオルトという街そのものだし、そんな街で独り暮らす冴えないシルヴァンそのものでもある。


シルヴァンが美しい母娘と短い時間を過ごし、ヴァカンスが終わって2人が帰っていくまでの物語。部屋に映画やミュージシャンのポスターを貼り、冷蔵庫にムーミンの何かを貼り、常に甘いものを口にし、夜はひとりでwiiで遊ぶ彼の女っ気なしの世界が久々に女で彩られたとき、髪をとかし、洋服を買い、車に溢れるキャラクターグッズを軽く決意に満ちた表情でダッシュボードに隠す細かい行動を注意深く追ううちに、酒に酔った調子の良い母親がリップサービスか本心か曖昧な口調で「目が綺麗ね」と誉めたとおり、よくわからない髪型と小太りの頬肉につい愛着が湧いてしまった頃、確かにシルヴァンの目がとても綺麗に思えてくるのだ。


映画祭のティーチインで、男性が「最後にシルヴァンに訪れるご褒美は、自分のようなモテない男に夢を与えてくれるようだった。ありがとうございます」と感想を言って会場を湧かせていた最後の10分間は、最初観たときより2度目のほうが見えなかったものがよく見えた。目が醒めたシルヴァンが朝の光の中、最初に見た景色など。ヴァカンスは永遠には続かないけど、ヴァカンスで会った人は自分を確かに変えていくのだ。


「女っ気なし」は1時間ほどの時間すべてが好きな場面と断言できる。とりわけ好きなのは「遭難者」のパン屋のシーンに登場した太ったおばさんマリーさんとシルヴァンが庭でお茶する場面。シルヴァンに尋ねられ、マリーさんは夫とのなれそめを話す。セリフは確かこんなだったっけ。「お互い家族で出かけたキャンプで会ったの。その頃、私はもうこんな(太った)姿だった。お互い、最初、言葉はなかったわ。ふたりで海岸を歩いて・・ある時、自然に手を繋いだのよ」


ティーチインで冷蔵庫に貼られたムーミンの切り抜きについて質問があった時、監督は、よくそんな細かいところに気づいたね、という前置きで「あの物語が日本でどれぐらい知られているかわからないけど、自分にはロメールやロジエよりもムーミンからの影響が強い。いっけん優しい物語の中に、男女が一緒にいることの難しさを語っている」と答えていたのが印象的だった。ムーミンの物語をそんなふうに読んだことはなかったから、改めて読んでみたい。確かにシルヴァンも、太ったマリーさんもムーミン谷に存在しそうなキャラクター。


映画を作ったとき、監督自身は孤独を感じていたという。オルトという寂れた土地に惹かれ、シルヴァンを演じる俳優と出会い、これらの物語が生まれた。遠い場所で生まれた物語が海を渡って東京にいる私の胸をこれほど打つなんて、純度の高い孤独とはまったく素晴らしいものである。




おそらく明日まで、渋谷で。終わってしまうのが寂しい。また、年に1度はシルヴァンに会いたいなあ。日本バージョンのチラシもサイトも素晴らしくて、思わずポスター買ってしまった。

2013-11-25

Maurice Pialat

イメージフォーラム、モーリス・ピアラ特集にて。フランスの監督のインタビューなど読んでるとしょっちゅう名前の挙がる人だけど、接点がなかったのは、日本でほとんど公開されていないかららしい。今回は後期代表作4本公開、3本観てきた。
 
 
 
 
まず「愛の記念に」。サンドリーヌ・ボネール演じる奔放な10代の娘とその家族の物語。家族は娘の奔放さを攻める側(母、兄)と、それがどうしたの?側(父、娘)に分断され、攻め側の言葉身体双方の暴力に、父は蒸発し、娘はさらに奔放を極める。父をピアラ自身が演じており、登場場面は少ないのに物語の要となる役で、美味しいところは全部監督本人が持って行く北野武方式の映画でもある。父と娘の会話の場面はすべからく味わいがあった。娘の行動を心配しすぎるでも肯定しすぎるでもない。お前は愛することを知らないんだね、と言っても説教ぽくもなく親らしさもない。家族の中で父らしさ娘らしさといった役割を守るよりも、まず人としての欲望を追求したい、同じカテゴリにいる人間同士の連帯感が漂っており、娘を見つめるピアラの視点の曖昧さがそのまま余韻として残る。
 
 
 
「愛の記念に」が良かったので、期待して観た「ポリス」は、ピアラの作品の中でもいちばんフランスでヒットしたものらしく、楽しみにしていたのだけど、話をまるで掴めないまま終わってしまった。獣みたいなドパルデューと、はすっぱなソフィー・マルソーが刑事と容疑者という関係で出会い、やがて愛に至る・・という物語なのだが、絡んでる事件自体がよくわからない・・。誰かこの物語を200文字ぐらいで私に説明してほしい。あらすじを掴めたら、2度観ることがあるならソフィー・マルソーの役柄について注目して観たい。ピアラは玉虫色の女性をきちんと玉虫色に描くことができる男、という気がする。
 
 
 
 
3時間近い大作「ヴァン・ゴッホ」はゴッホの生涯最後の2ヶ月を過ごしたフランスの村での日々。耳を切り落とし精神病院に入って出た後で、小さく美しい村で、コレクターでもある名士の家に出入りしながら、その家の娘と親密になる。マネージャー的役割だった弟のテオとその妻や、ゴッホと長らく親しいらしい娼婦も物語に絡む。ゴッホについて作品はたくさん生で観ながらも、その人生や性格について詳しく知らず、鬱々とした男なのではと勝手に思っていたけれど、ピアラの描くゴッホは太宰の物語の男みたい。いかにも芸術家らしく、不安定で、すぐ死にたがり、女を引き寄せる。ゴッホとの関係を通じて10代と思われる若い女が徐々に年齢に似合わぬ肝の座った態度を身に付けていく様子も太宰の物語の女みたいだった。
 
 
もう1本「悪魔の陽の下に」を観る都合をつけられる自信がないのだけど、ピアラの映画はひととおり観た後、記憶の中でフィルモグラフィを時系列に並べ、それぞれの映画の関連性をふむふむ考えると面白いかもしれない。数本観ただけで手放しに好き!と思える人ではないけど、引き続き観られる機会があれば駆けつけたい。

2013-11-23

Tokyo filmex opening

 
 
おもいきりボケた写真だけど・・・東京フィルメックス開幕。フィルメックス参加は初めてかも?フランス映画祭や東京国際映画祭の華やかさを思うと、ずいぶんアットホームな映画祭。
 
 
審査員では女優の渡辺真紀子さんがいらして華やか。「愛のむきだし」や「愛の予感」やら観てると、おおおおお!本人!ってさすがに感慨ある。
 
 

 
開会式に引き続き、個人の事情で来日しなかったジャ・ジャンクー監督からのメッセージ映像、続いてオープニング作品「罪の手ざわり」の上映。ジャ・ジャンクー監督の映画、おそらく全て映画館で観てると思うのだけど、確かにこれは新境地。そのうちちゃんと書く。
 
 
勢いで2本目も観る。釜山国際映画祭の名誉ディレクター、キム・ドンホ氏を追ったドキュメンタリー「微笑み絶やさず」は、功績もさることながら、氏の驚異的な体力に驚かされたし(あんなに眠らずに動き続けられる体力、私も欲しい)、真面目かつ快楽主義な印象の方。念願叶って建てられたという上映会場が立派で、ずいぶん前に一度だけ行ったことのある釜山の海辺や刺身の味が思い出され、いつか釜山国際映画祭に行ってみたいな、と思った。
 
 
2本目の私の目当ては「微笑み絶やさず」の前に上映された短編2本のうち、1本目「可視から不可視へ」で、これはマノエル・ド・オリヴェイラによるもの。4分という短さだけど、4分のためにチケット買った。現在104歳、現役最高齢のポルトガルの偉大な映画監督。最近亡くなったサンパウロ映画祭ディレクターのレオン・カーコフ氏を主演に、知り合いの若者と街でばったり会ったカーコフ氏が、再会を懐かしむのに、数秒に1度、どちらかの携帯が鳴り会話が遮られ、若者がカーコフ氏に携帯番号を聞き、2人は目の前に身体があるのに携帯電話を通じてようやく会話ができる。会話ができたと思ったら、中身は愛や性や世界の救い方についてで、世界の救い方についていよいよカーコフ氏が語り始める・・!と思ったらカメラが俯瞰に変わって観客である私は答えに到達できないのだ。お茶目かつ深淵、現代的でもある。4分であってもオリヴェイラはオリヴェイラ!
 
 
オリヴェイラ監督といえば、一度観て、これは忘れたくないと思ったyoutubeをこの機会に貼っておく。踊るオリヴェイラ!素敵!
 
 
釜山の映像観たら食べたくなった韓国料理きゃーきゃー食べて帰宅。
 

 

2013-11-19

J'ai tué ma mère

 
渋谷アップリンクで。グザヴィエ・ドラン監督「マイ・マザー」を観る。1989年生まれ、現在24歳の監督が、19歳の時に撮った処女作。17歳の頃の自分を描いた半自伝的物語らしい。
 
 
 
「センス」ってよく耳にするけどそれっていったい正体は何なのか、正体が解ったところで訓練・教育可能なものなのか、という話を時々周りとするのだけど、答えが出ない。先日、東大の山中俊治教授が呟いておられた内容が印象的だったのでメモ。
 
 
「デザインの話をしていると、感覚の話と感情の話をごっちゃにしているなと思う事がある。たぶん、美的感覚は感情ではない。美しいものに感動して涙するっていう状態は感情の表出だけど、美的感覚そのものは空間感覚とか身体感覚とかに近い、言語化できない高次の情報処理だと思う」
 
 
この言葉には何かしら答えが含まれている気がして、しばらく頭で転がしている。そうするとグザヴィエ・ドラン若干19歳のセンスは、高次の情報処理能力を生まれながらにして、もしくは生まれてから僅か19年の間に身に付けたものなのだろうか。
 
 
「マイ・マザー」は母親と2人で暮らす17歳の高校生の日々の物語。母子家庭で、17歳の彼が同性愛者であるという設定自体も現実においても映画の世界でも特段珍しいものではないけれど、グザヴィエ・ドランが2時間に満たない物語に仕立てていく手つきは全く平凡なものではなかった。気を抜いたショットが1秒もなく何を画面の中心に据えて何を省略すべきかすっかり体得しているように見える恐るべき19歳・・と年齢に似合わない早熟ぶりに一瞬圧倒されるのだけど、冷静な頭でよくよく考えてみると実は一番圧倒されたのは物語が極めてシンプルなこと。
 
 
「マイ・マザー」は究極の反抗期映画であり、マザコン映画でもある。そんな物語を、懐かしむにも俯瞰するにもまだ早い?19歳の監督が生々しさを残したまま撮っている。全篇を通じて彼はママが大好きで大嫌いとしか言っていない。いっけん装飾過剰に見える映像を剥がすと見えてくる主題が、処女作でいきなり普遍に到達して無駄がないことに・・・どの分野にも天才はいる。アンファン・テリブルってつくづくこういう人のための言葉だなって思わされた。
 
 
フランス映画祭でナタリー・バイのティーチインつきで観た長篇3作目の「わたしはロランス」は、女の装いで生きることに決めた男と、その恋人の女性の長らくの恋愛の物語で、80年代の終わりに生まれたグザヴィエ・ドランが好きらしい80年代90年代のファッションに彩られており、その年代のファッションが苦手な自分はやや画面を観るのが辛かったのだけど、最後のバーの場面、2人が2人の関係の真理にたどり着いてしまう短い会話で一気に物語に連れ戻された。設定は奇抜に見えるけど「わたしはロランス」は、かつて偉大な映画監督たちが軒並み描いてきた「一組の男女が別れたり戻ったりする腐れ縁を描きつつ恋愛の普遍に到達する」映画史上脈々と続く古典的主題の新たな傑作を若干24歳の若者がモノにしたということなのだ。音楽よりも衣装よりも、私はそこが好きだった。主役、メルヴィル・プポーも良かったけど、ルイ・ガレルが降板してのメルヴィル登板だったのね。実現しなかったルイ・ガレル版「わたしはロランス」妄想するだけでうっとりするな。
 
 
「マイ・マザー」では主演も兼ね、衣装やヘアメイクも本人が担当してるのだそうな。ルックスも良く、センスも良し。長編処女作で過去の自分ときっちり向き合って訣別してる感もトリュフォーみたいで良し。グザヴィエ君に死角はあるのか・・?ガス・ヴァン・サントや、ウォン・カーウァイの名前が引き合いに出されるみたいだけど、私の中では監督としての力量は既にその2人なんて超えてると思う。いったいいくつまで「若干○○歳の天才!」って言われ続けるんだろうね。「マイ・マザー」の次の2作めと最新作(4作め)が来年公開とのことで、楽しみ。

 

2013-11-18

Minimalist mantra

 
最初に手をつけることはモノの総量を半分にすること。過激に思えるminimalist mantra は実践しようと思っていまiPhoneの待ち受けにしてる。今年の初めもずっとモノを処分し続け、これ以上捨てるものはない状態にしたつもりだったけど、あの頃と現在じゃ自分の中身が半分は入れ替わってしまったから、半分要らないと思っても不思議ではない。
 
 
処分するのに悩ましくて面倒なのは洋服類。VOGUE のバックナンバー捨てる前に眺めてたら、CELINEのPhoebe Philo のインタビューに、彼女が考える究極のワードローブについて発言があったのでメモ。
 
 
 
「私にとって、究極のワードローブは1枚の白いシャツ、1本の黒いパンツ、スカート1着、それとコートは3枚ぐらい。ジャケットが2着、ハイヒールとフラットシューズ、それにスニーカーを1足ずつ。バッグが1個。バッグは多分、1つだけあればいいわ。うーん、それからセーターが2枚。あと多分、スカーフが1枚ね!」
 
 
カウントしてみると、衣類は合計10、靴3,バッグ1,スカーフ1。究極だな。もう少し年を重ねたら、全部良質で総数はこれぐらいの領域に辿り着きたいものだ。・・・60歳ぐらい?
 
 
Instagramで、年間合計20着で着回すことに決めたらしい東京に住む女性がワードローブを再構築する様子をしばらく興味深く眺めてた。
 

 
あのテイストも好き、このブランドも好きって浮ついているといつまでも数は減らないので、究極のワードローブの実現は頼れて愛せるブランドと出会うことが肝だと思う。この方はCELINE、ACNE、CARVEN、MARNI・・などで構築したみたい。年間20着でじゃんじゃん着回して、質が良いから長く着られると思ったらそれほど高い買い物じゃないのだろう。徐々に自分と着ているものがズレてきたと思ったら、1枚手放して新しい1枚を探しに行けば良いのだし。
 
 
オスロに住むベトナム系の学生さんがファストファッションと決別し、学生だけども手の届く範囲で上質のものを数を絞って手に入れていく過程も、いま興味深く読んでいる。彼女は身体に合うという理由でAPCが好きらしい。APCに出会うまではIsabel Marantが好きだったみたいだけど、気分が変わってIsabel Marantはちょっとnoisyに思えてきたみたい。そういうことってあるある。学生の彼女が経済的にどうやってワードローブを揃えているのかという質問にも丁寧に答えていたり、名のあるブランドであっても近年クオリティが徐々に下がってきていたりすることもシビアに指摘していたりして、読み応えあり。
 
 
↑この時点では合計35点!まだAPCに本格的に出会う前らしい
 
果たして自分はというと、今年たくさん出ているペンシルスカートが目新しくて試着したりしたけど、小柄な自分にはなかなかバランスがとりづらいのと、ペンシルスカートほど自転車乗りに適さない洋服はない!という生活上の要請から見送った。新しいシルエットのスカートより、自転車に乗るほうが大事だから、当分は実用性重視で自分なりの究極のワードローブを作っていくことになりそう。