CINEMA STUDIO28

2015-05-21

続・春画からはじまる連想

 
 
一昨日の日記の続き。
 
 
春画展のニュースから、「蛸と海女」、相米慎二「ラブホテル」と脳内で繋がった後、ふと春画展が開催される場所、文京区と書いてあったので近所かしらと調べてみると、椿山荘あたりにある永青文庫だった。行ったことがないので、どんな場所なのか調べてみると、こんな外観の場所で…
 
 
写真右下にある石の輪っかみたいなのは門?なのか、ここをくぐって入るようで、わぁ、鈴木清順の映画みたいな世界ではないか。振り返ってみると、あれは冥土の入口だったのですね。とでも言いたくなる場所、と妄想した。
 
 
春画、永青文庫のこの外観…から、連想はすぱっと「陽炎座」に飛び、あの映画の中での不思議な場面を記憶の限り詳細に脳内上映してみた。物語の舞台である金沢の邸宅で、洋装の男たちが集まる。すっと手首に剃刀をあて、軽く血を流してはその香りを嗅ぎ、おもむろに人形を持ち底から中を覗き込む。覗き込むと男女交合の場面、春画の立体版のような人形が、外からはそうとわからない普通の土人形の中に仕掛けてあるのだ。人形の中を覗き込む秘密の会合で、覗き終わったら人形を床に叩きつけ割って、土に返す。
 
 
泉鏡花の原作にこのような場面があるのかどうか、読んでいないので知らないのだけど、あれは鈴木清順監督の創作なのだろうか、それとも現実にあのような会合がこの世に存在するのだろうか。
 
 
これまで妄想するだけで調べもしなかったのは何故だろう、と、ふと「人形」「春画」「覗き込む」など適当なキーワードで調べてみると、深沢七郎「秘戯」という一篇が、博多人形の裏返しを題材にしたもので、読まれた方が映画「陽炎座」との関わりについて書いているのを読んだ。同じことを考える方がいらっしゃるのですね…書き残しておいていただいて、助かる…。
 
 
ちょうど帰りの電車で調べていたので、ついでに図書館の在庫検索をしてみると、最寄りの図書館に文庫があることを知り、その足で借りに行く。便利。「みちのくの人形たち」という短編集に収録されている。
 
 
深沢七郎自身がモデルなのかな?と思われる己の死期を悟った主人公が、息子や知り合いの編集者と共に、かつて暮らした博多を訪れる。かつての仲間が集まり、水炊きでもてなされるのだが、食事の前に「博多人形の裏返し」をみんなで執り行う。それはもう執り行う、と言いたくなるような儀式めいた緊張感漂う描写だった。
 
「この人形を見るには、昔は ー おそらく江戸時代からだろう、見る者も、見せる者もカミソリで腕を切って、血を啜るしきたりだった。あのころは、そういう形式は略されていて、ただ、手に傷をつけるだけだった。」
 
 
40年前はそれで生計を立てていた男もいたようだけど、描かれた再会ではそれぞれの男たちは別に職業を持ち、金銭のために人形を作ってるわけではないようだった。作り、血を啜り、鑑賞し、割って土に返して後に残さない。血を啜るのは、そんな世界に足を踏み入れた者同士の誓いのような意味合いがあるらしい。これを読んでも、これらの一連が深沢七郎の創作なのか、描かれたとおり江戸時代から伝わる土着の風習のようなものなのかはわからなかったけど、きっと創作ではないのだろうな。小説は参加者は人形を作る側でもあったので、作る人独特のストイックさが漂っていたけれど、映画での参加者は収集家、愛好家、といった風体で、小説よりはるかに享楽的だった。
 
 
小説では血を啜る、と書かれていたので読みながら口の中に血の味が広がったのだけど、映画では啜るではなく、匂いを嗅いでいたように記憶しているけど、記憶が遠いのではたしてどうだったか。あの場面を観た私は、己の血の匂いを嗅いで、ちょっとした酩酊状態をつくりだし、軽く酔った目で眺める人形の裏は、まさに夢と現を行き来するような味わいがあるのではないか、と考えていた。映画では様々な会合、集い、パーティーを目にしてきたけれど、どれかひとつ選んで自分が参加して良い、と言われたら、「陽炎座」の金沢の、あの秘密めいた集いに参加してみたい。女人禁制なのだろうか…。
 
 
6月に早稲田松竹で「陽炎座」が上映されるようなので、久しぶりに観ようかな、と考えたところで、春画からはじまる連想は頭の中で行き止まりになった。深沢七郎の小説がさっと読める短さで助かった。なかなか読み終わらない長編だったら、こんな連想がいつまでも続いていよいよ生活に差し支える、と危惧されたところ。