CINEMA STUDIO28

2013-04-06

The Master


 
 
3月のこと。日比谷シャンテにて。ポール・トーマス・アンダーソン「ザ・マスター」を観る。新興宗教の教祖と、偶然の出会いから彼の宗教の一員となった男の物語。見終わった後のエレベーター(男性率高し)が「・・・」ってなんとも言えない空気漂い、途中退席して戻ってこない人もちらほら。楽しみにしてた私も、咀嚼しきれない肉の筋が歯の隙間に詰まったみたいな気持ち悪さを感じる。
 
 
それから何週間か、頭の中で気持ち悪さを転がしつつ、やんわり辿り着いた、あれってどういう映画だっけの解釈は、「冷血」を書いた際のカポーティの「僕と彼(冷血の題材となった殺人犯の男)は同じ家で生まれた。一方は裏口から、もう一方は表玄関から出た。」という言葉に近い。2人の男は2人で1人。
 
 
そして今日たまたま目にしたこの記事!
 
この映画を語るに日本で一番適した人かもしれない人のコメントで、短いけど味わい深すぎる。この映画について書かれた文章で、腑に落ちたのはこれだけ。
 
 
マスターを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンはさすがの安定感ながら、フィリップがキャスティングを提案したというホアキン・フェニックスにはあらゆる賞を贈呈してほしい。本人が要らねえよと言いそうだけど・・。ホアキン演じる男の演技なのか本人なのか境目不明な情緒不安定な佇まいがなければ、この映画は成立しない。加えて、マスターの妻のエイミー・アダムス!実は主役は彼女では?女の武器と男以上の男らしさをふんだんに駆使し宗教をマネジメントする女。最後の場面を観たとき、3人のうち、マスターたりうる資質があるのは彼女だけと思えた(ので、この画像↑を選択。男2人が虚空を見上げる中、男を従えるかのごとく中心にいる女の据わった目!)
 
 
監督の言葉にある「人は何かマスターという存在なしに生きられるか?」という問いには「・・・生きられるんじゃない?」としれっと答えてしまう依存心薄めの私、この映画は中長期検討課題として取り扱おうっと。