今週、移動中ずっと読んでいた宮本輝「錦繍」読了。かつて読んだのはどれほど前だっただろうか。時間潰しに入った本屋の棚でふと目にとまり、開いてみて冒頭の一文を読み、確かに自分はずいぶん前にこの文章を読んだ、と思い出して買って、積んだまま一年は経過している。
「前略
蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すらできないことでした。」
かつて夫婦だった男女が別れ、偶然再会し、手紙のやり取りが始まる。あとがきに書かれていたように、昭和60年頃、電話の普及が、手紙を旧時代の通信道具の位置に追いやった頃の物語。
「そして、だからこそ、作者、宮本輝氏の狙いがそこに定められたのではないだろうか。もしも電話の普及が手紙の多くを無用のものとしているのだとしたら、にもかかわらず書かれねばならぬ手紙とは、おそらく他のいかなる手段によっても取ってかわられることの出来ない、最も本質的な手紙であるに違いないからだ。ひとりの女が、ひとりの男に向けて、書くことによってだけ辛うじて伝え得る悔恨を、哀惜を、思慕を綴ったような便りが、手紙の中の手紙でなくてなんであろうか。」
往復書簡であるからして、そんな手紙の中の手紙を書くのは女だけではない。返事を送る男も書く。綴られる内容の激しさに依らず、書いている最中の二人は、水を打ったように冷んやりとした孤独の淵にきっと位置しており、私が書簡文学を好きなこと、手紙を書くことが好きな理由もそこにあるように思う。
今年舞台を観た後に読んだ井上靖「猟銃」も書簡文学で、あちらは映画化されていた。「錦繍」が映画化されたという話は聞かないし、知りうる限りされていないはずで、残念なような、ホッとするような。舞台化はされているようで、余貴美子、鹿賀丈史が主演とか。二人とも達者な演技なのだろうけど…小説のイメージより少し年を重ねすぎてやいないだろうか。40前後の俳優が向くだろうし、そのくらいの年齢であることに意味がある物語だと思う。