CINEMA STUDIO28

2013-11-19

J'ai tué ma mère

 
渋谷アップリンクで。グザヴィエ・ドラン監督「マイ・マザー」を観る。1989年生まれ、現在24歳の監督が、19歳の時に撮った処女作。17歳の頃の自分を描いた半自伝的物語らしい。
 
 
 
「センス」ってよく耳にするけどそれっていったい正体は何なのか、正体が解ったところで訓練・教育可能なものなのか、という話を時々周りとするのだけど、答えが出ない。先日、東大の山中俊治教授が呟いておられた内容が印象的だったのでメモ。
 
 
「デザインの話をしていると、感覚の話と感情の話をごっちゃにしているなと思う事がある。たぶん、美的感覚は感情ではない。美しいものに感動して涙するっていう状態は感情の表出だけど、美的感覚そのものは空間感覚とか身体感覚とかに近い、言語化できない高次の情報処理だと思う」
 
 
この言葉には何かしら答えが含まれている気がして、しばらく頭で転がしている。そうするとグザヴィエ・ドラン若干19歳のセンスは、高次の情報処理能力を生まれながらにして、もしくは生まれてから僅か19年の間に身に付けたものなのだろうか。
 
 
「マイ・マザー」は母親と2人で暮らす17歳の高校生の日々の物語。母子家庭で、17歳の彼が同性愛者であるという設定自体も現実においても映画の世界でも特段珍しいものではないけれど、グザヴィエ・ドランが2時間に満たない物語に仕立てていく手つきは全く平凡なものではなかった。気を抜いたショットが1秒もなく何を画面の中心に据えて何を省略すべきかすっかり体得しているように見える恐るべき19歳・・と年齢に似合わない早熟ぶりに一瞬圧倒されるのだけど、冷静な頭でよくよく考えてみると実は一番圧倒されたのは物語が極めてシンプルなこと。
 
 
「マイ・マザー」は究極の反抗期映画であり、マザコン映画でもある。そんな物語を、懐かしむにも俯瞰するにもまだ早い?19歳の監督が生々しさを残したまま撮っている。全篇を通じて彼はママが大好きで大嫌いとしか言っていない。いっけん装飾過剰に見える映像を剥がすと見えてくる主題が、処女作でいきなり普遍に到達して無駄がないことに・・・どの分野にも天才はいる。アンファン・テリブルってつくづくこういう人のための言葉だなって思わされた。
 
 
フランス映画祭でナタリー・バイのティーチインつきで観た長篇3作目の「わたしはロランス」は、女の装いで生きることに決めた男と、その恋人の女性の長らくの恋愛の物語で、80年代の終わりに生まれたグザヴィエ・ドランが好きらしい80年代90年代のファッションに彩られており、その年代のファッションが苦手な自分はやや画面を観るのが辛かったのだけど、最後のバーの場面、2人が2人の関係の真理にたどり着いてしまう短い会話で一気に物語に連れ戻された。設定は奇抜に見えるけど「わたしはロランス」は、かつて偉大な映画監督たちが軒並み描いてきた「一組の男女が別れたり戻ったりする腐れ縁を描きつつ恋愛の普遍に到達する」映画史上脈々と続く古典的主題の新たな傑作を若干24歳の若者がモノにしたということなのだ。音楽よりも衣装よりも、私はそこが好きだった。主役、メルヴィル・プポーも良かったけど、ルイ・ガレルが降板してのメルヴィル登板だったのね。実現しなかったルイ・ガレル版「わたしはロランス」妄想するだけでうっとりするな。
 
 
「マイ・マザー」では主演も兼ね、衣装やヘアメイクも本人が担当してるのだそうな。ルックスも良く、センスも良し。長編処女作で過去の自分ときっちり向き合って訣別してる感もトリュフォーみたいで良し。グザヴィエ君に死角はあるのか・・?ガス・ヴァン・サントや、ウォン・カーウァイの名前が引き合いに出されるみたいだけど、私の中では監督としての力量は既にその2人なんて超えてると思う。いったいいくつまで「若干○○歳の天才!」って言われ続けるんだろうね。「マイ・マザー」の次の2作めと最新作(4作め)が来年公開とのことで、楽しみ。