CINEMA STUDIO28

2016-05-31

Rohmer tote

 
 
LAのお友達から届いたOZU Tの小包にゴダール・トートも同封されており、
 
 
こちらの。ガシガシ使ってます。
 
 
返礼として現在、東京で開催中の「ロメールと女たち」特集記念のロメール・トートを東京土産としてお持ち帰りいただく。私も購入。品質に一家言ありがちな日本の人々にあわせてか、しっかりした素材のトートで、荷物少なめの私は夏ならこれで1泊旅行ぐらい行けそう。
 
 
ロメールのフィルモグラフィーは、それぞれ独立しながらもシリーズになっているものがある。四季の物語(春のソナタ、夏物語、恋の秋、冬物語)や、喜劇と格言劇シリーズ(Comédies et Proverbes)など。喜劇と格言劇シリーズは、タイトルの後に格言が表示され、最後まで観終わってみると、確かにあの格言そのものだったよなぁ…と、ぼんやり振り返る構成の映画群。
 
 
トートバックに書かれた Qui trop parole, il se mesfait...は「海辺のポーリーヌ」の格言で、口は災いのもと、の意味。ま、ロメール映画に登場する人々なんて老若男女、誰もがこれでもかと話しまくるので「海辺のポーリーヌ」に限った話ではないのだけど。

 

2016-05-30

Ozu VS Scorsese!

 
 
年末に受け取ったLAからの小包にTシャツが入ってて…ん?と広げてみたらまさかのOZU T!!ジャパニーズダンディーな小津イメージから遠く離れたデザインに爆笑…!去年、茅ヶ崎の小津の宿や長野の映画祭に赴き、計らずして小津イヤーだったので、そんな年の締めくくりに!という粋なプレゼントだった。
 
 
そして半年後。そのお友達が東京に遊びにきて手土産が…誰のTシャツでしょう?最近原稿に書いてた…とのヒント。そう、Scorsese T!! またもや若干イラッとくるデザインに爆笑。これで私の夏は盤石。 燦々と太陽輝く大好きな季節だというのに、締切前で外に出られない夏の日、すっぴんに眼鏡、アイスコーヒーがぶ飲みしつつデニムにOZU or Scorsese TでひたすらPCに向かう…なんてちょっとやさぐれた状況に似合いそうなデザイン。小津にスコセッシ、日米巨匠の魂が降霊していくらでも筆が進みそう…と、ここまで書いてふと思う。小津はとっくに亡くなってるけど、スコセッシ、存命である。じゃんじゃん新作も撮ってお元気そう。降ってくるなら生き霊でお願いします。
 
 
スコセッシといえば…!ショートショートフィルムフェスティバルで上映されるショートフィルム「オーディション」、とっても豪華で面白そう。なんでもディカプリオとデニーロがスコセッシ映画の役を巡って火花を散らすあらすじだそう。おい若造、お前、スコセッシ映画何本出てるんだよ?俺なんてお前の生まれる前から出てるんだぜ。的なセリフもあると何かで読んだ。
 
 
あたしとあの娘、どっちにするの?と迫られるスコセッシの後ろ姿
 
 
しかし見逃せないのはブラッド・ピットの名前もクレジットされていること。2人がバチバチしてる間に、ブラピが美味しいとこ持ってく展開なのかな。観たい!けど、これがかかる回はどれも満席だった。今もお元気ってこと一瞬でも忘れた私への天罰だろうか…。
 

 

2016-05-29

2016/5/29

 
 
年末に1回めを観た時と同様に、ハッピーアワーの余韻から抜けられず。一緒に観た友達と自分たちの話をしながらも、「それって、あかりさんっぽい人だな」とか、登場人物の名前を引き合いに出すなど。
 
 
期限までに読み終わらずいったん返却した、濱口監督の書籍「カメラの前で演じること」が、このタイミングで再び手元に届いたので、今度こそは読了するつもり。
 
 
こちらの長いインタビューが面白かった。
 
 

「この人たちができないこととか、この人たちが“やらないだろうな”ってことはやらせない。その中に、自分自身がみじめになるようなことは決してしないっていうのがあって、それは映画にとってもいいことだと思ったんです。誇り高いものになるというか」


「自分のことをしている人の顔は、画面にすっと収まるんですよね。なぜかはわからないんですけどね。だからたぶん、自分がすべきことをしてきた人ってのは、それなりにいい顔をしてるんじゃないか、と思うわけです」



「自分自身とは別のところに基準を置いている、他から認められるために何かをしているっていうのが見えると、いい顔にはならないしダメですね」



当然といえばそうなのだけど、作る過程で考えたこと、志したこと、しないように気をつけたことはダイレクトに映画に表れるものなのだな。映画から受けた印象に、監督によって言葉が与えられた、と思った。外見に内面がすべて表れるというのは人でも映画でも同じなのだな。

 

2016-05-28

2016/5/28

 
 
本日の映画/映画館。去年、渋谷で捧げた人生の317分を半年後、池袋でまた捧げることになるとは想定外だったけど、新文芸坐の大きなスクリーンで再見できる幸せ。休憩中の場内アナウンス、開始時間に鳴るチャイム等、久々の新文芸坐を満喫。

 

2016-05-27

2016/5/27

 
 
カンヌ映画祭が終わった週なのに、エル・ファニングinカンヌの写真を記録しておかないなんて愚の骨頂なので貼っておく。哀しい気持ちになった時に観て、心を整える用途でもある。監督(「ドライヴ」の監督)と2人で何故かファイティングポーズのバリエーションを披露するエル・ファニング…。
 
 

 
ドレスもどれも似合ってて、エル・ファニングが次に何を着るかチェックするのが本当に楽しみな日々であった。少女らしい顔ながら、身体つきはしっかりしてるな、と映画を観るたび思う。こんなドレスはエル・ファニングのためにこの世にあるんだね。
 
 
私の好きなエル・ファニング映画は「ジンジャーの朝」(GINGER&ROSA / 2012)。
 
 
カンヌ、星取り表をチェックしながら、この人の新作が賛否両論なのか、この人のは酷評…名前の知れた監督のは軒並み点が低かったので、審査結果と星取り表の乖離に驚き。評論家じゃなく審査員が選ぶから乖離は当然なのかな。去年の東京国際のコンペはほとんど観たけど、私が好きだったのは殆ど入賞しなかったし、グランプリは今、何故この映画を評価する…?と思ったものだった。イザベル・ユペール主演の「Elle」の公開が楽しみ。ドランの新作も観に行くだろう。エル・ファニングの新作ももちろんです。Bon week-end!!

2016-05-26

Documentary harassment?!

 
 
一部のドキュメンタリーを観ている時に感じる、ずかずか他者の領域に土足で踏み込むような態度が苦手、と書いたのだけど、
 
 
 
 
これまで観た中で、その点で苦手だったのは新藤兼人監督「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」だった。今よりもっと他者への寛容度の低い10代の頃に観たからかもしれない。
 
 
溝口健二と共に映画をつくった多くのスタッフ、俳優たちに新藤兼人が直接インタビューする。時折、で、あの噂はどうだったんですかね?と問いかける。溝口健二と田中絹代って本当のところどういう関係だったんでしょうかね。誰も確信めいたことは言わない。そしてついに終盤、真打登場。カメラの前で姿勢は崩さず、けれど心を泳がせながら執拗な質問をかわす田中絹代を新藤兼人はさらに問い詰めて…。新藤兼人…週刊文春が人間の形を纏ったような男…。目の端に涙を滲ませる田中絹代を見ながら、人を泣かせてまで知りたい真実なんてこの世にあるのかな、と思った。
 
 
問い詰める口調が、お前あいつとつきあってんの?と囃し立てるにきび面の田舎の中学生そのもので、以来新藤兼人の名前を目にする度、田中絹代の表情がフラッシュバック。あのドキュメンタリーは一度観たきりで、あのおっさんが作ったというだけで新藤兼人監督作も避け気味だけど、他の監督作で脚本・新藤兼人という組み合わせの場合は無視できない。悔しいけど面白い映画ばかり。こんな物語を書くのは観察眼鋭い男なのだろう、と、ドキュメンタリーを観ていなければ好き勝手妄想できたものを。そして田中絹代を問い詰めたのと同じふてぶてしさをもって、切れ味鋭いフィクションのセリフを書いているのだろう。
 
 
ずいぶん前に観たドキュメンタリーの不快感を今も覚えているのだから、嫌いということは、好きと同じかそれ以上に、記憶に残る、強い感情なのだな。

 

2016-05-25

明るいほうを見る

 
 
連休に帰省した関西では、奈良・京都界隈で景色や美術、美しいものをたくさん観たけど、最終日、朝食をとるために適当な店に入り、窓際の席でひたすらぼんやりした時間のほうが何よりも濃い印象を残している。30分ほどで出るつもりが珈琲をおかわりし、1時間ほど延長して外を見ていた。東京でも、週に30分でもこんな時間があれば思考をもっと遠くまで巡らせることができそうだけど、生活者として暮らす街と、土地勘はあれど生活はしていない街だと実生活との距離感のせいか、思考に入り混じる雑念の分量が違いすぎる。
 
 
東京でぼんやりすることを目的にわざわざ行く場所、好んで行く喫茶店などは、穴蔵のように壁面に囲まれた地下の店だったりして、こんなふうに明るい外を見られる場所なら、エアポケットのようなあの時間を東京でも味わえるのかもしれない。
 
 
暗い場所から明るいほうを見ることを好むのは、映画館でスクリーンを眺めるのを好むということと同じ嗜好なのかもしれない。去年読んだ「映画館と観客の文化史」で、アメリカの初期の映画館はヴォードヴィルシアターから映画館に変化したパターンに加え、教会から映画館に変化したパターンも多かったと書かれていた。暗くならないと営業を始められないドライブインシアターは、昼間、教会の布教活動によく使われたという歴史も。多くの人を収容でき、ひとつ方向に向かって座席を配置する点で、教会と映画館は共通している。そして暗い場所から明るいほうを見る時、人はそこに映っているもの、そこにあるものを信じやすい、ということなのでは。と考えたのだけど、ただ単に私が、ぼんやり明るいほうを見ることを好むがゆえの発想なのかもしれない。
 
 
御池通の新緑。

 

2016-05-24

京都のデュシャン

 
 
京都のメモ。ヌーヴェルヴァーグのことをつらつら考えていたら→レディメイド→デュシャン、観たい。と思考が流れ、デュシャン、どこにあるの。と調べてみたら京都の近代美術館がいくつか所蔵しており、所蔵しているからっていつでも観られるわけではないよね。とサイトを観ていたら、ちょうどデュシャンをたくさん展示する企画展がかかっていた。タイミングって合う時はぴたぴたっと気持ちよく合うのだな。
 
 
最後にデュシャンを観たのは、ポンピドゥーでのair de Parisという、デュシャンの作品を目玉にした企画展だった。ガラス瓶に製作当時のパリの空気が詰められており(というより瓶の構造上、詰めなくても自然に空気は中に詰まるもので)それが作品、という作品だった。展示室の壁面が一部ガラスになっていて、そこからパリの景色、当時のパリの空気に包まれた景色が観られた。それ以来のデュシャン。air de Parisも、有名な「泉」もあった。いざ現物を前にしてみると、作品に気をとられてヌーヴェルヴァーグからデュシャンを連想した自分については二の次になった。観た感覚を身体に貯蔵しておけば、どこかで手を繋ぐ時があるかも。
 
 
 
 
「オーダーメイド それぞれの展覧会」という企画展、近代美術館は通常、入ってすぐの大階段を登り、つまり入口はひとつで、そこから順路が設定されるという会場構成になっているものを、もう1つエレベーターからのアプローチを作り、鑑賞者がどこから鑑賞をスタートするかを選択することで順路を選べるようになっている。会場内も複数のキーワードをもとに作品を散りばめ、それぞれのブースが閉じておらず、感覚的に歩き回れる。面白い企画だと思ったけど、もともと私は美術館の設定した順路に従って観る意識が弱く、だいたいの展示は逆走したりとばしたりして好きに歩いて観ているので、「オーダーメイド」の提案、新しい体感だ!という発見はなかった。東京より関西にいる時のほうが美術展に行く機会が多いのは、関西で観るほうが断然空いており、好き勝手歩く自分が許容される環境で観られる、ということだと思う。
 
 

 

2016-05-23

市川崑映画祭の

 
 
喫茶店で延々とお喋りして帰宅したらポストに郵便が。!!!角川映画から…!市川崑映画祭スタンプラリー、応募してみたら当選したもよう。え⁈応募したっけ…記憶が薄い…そもそも「おとうと」「太平洋ひとりぼっち」の2本しか観ていないように思うし、2本で応募できる最小単位のものにトライしてみたのだっけ…。
 
 
当選商品はブックカバー!しっかりした布製、しおりつき。「おとうと」の岸恵子が目に入ったので、あ、こちらの男性はもしや…浩?川口浩?と期待したら…市川崑監督だった。市川崑映画祭だもの、文句は言いません。けれども裏面までしっかりデザインされたブックカバーだったから…どこかに浩を…浩を忍ばせて欲しかった…おとうと=浩だもの、忍ばせてもおかしくはあるまいよ…。
 
 
他にも商品の種類はあったように思うけど、自分が使うものを現実的に考えてブックカバーを希望したのだっけ。貴重なグッズをいただけて大満足。若尾文子映画祭のカレンダーに引き続き、角川映画、ありがとう。封筒には夏の角川映画祭のチラシも同封されていた。滅多にかからなさそうな映画を選んで観たいと思ってる。
 

 

2016-05-22

Victoria... encore!

 
 
本日の映画/映画館。去年の東京国際映画祭で観て、去年のBest5にも選んだドイツ映画「ヴィクトリア」、ロードショーで友達を誘って再見することに。早めにチケット購入し、長い待ち時間ぷらぷら歩いて明治通り沿いのレフェクトワールへ。摂取するといまいち身体に合わない小麦ものだけど、プチメック系列のパンだけは美味しく食べられるのは何故…材料が合うのだろうか。明日のランチ用にサンドウィッチもテイクアウト。
 
 
「ヴィクトリア」の特徴は何といっても140分ワンカット映画であることで、初見では案の定ワンカットに大興奮、あのシーンもあのシーンも全てが繋がっているのだわ…カメラも凄いが俳優たちも…と、製法に圧倒されたのだけど、2度目ともなればその方面の興奮は鎮まり、筋書きもシンプルで覚えており、そしてやっぱり素晴らしい140分だった。冷静になった分、時間配分に目がとまる。撮影上の制約なのか銀行強盗のシーンは省略され車で待つヴィクトリアが映されていたり、2度目のクラブのシーンや屋上での5人の会話シーンが無駄に長く感じられたり。引き伸ばされた時間と省略された時間のバランス。
 
 
タランティーノ「デス・プルーフinグラインドハウス」は後半のカーアクションシーンの痛快さのために前半はくだらないガールズトークが延々と続き、たわいのないセリフのひとつひとつが物語を煽動するためではなくキャラクターに肉付けするために機能していることに興奮したのだけど、「ヴィクトアリア」にも似た時間配分の緩急があった。このところ長い映画が増えているせいか、映画に流れる時間って何なのだろう…と、その映画がその時間、長さであった理由について考えることも増えている。
 
 
精緻に配分された140分のうち、ホテルに入った後の十数分が最も好きで、ヴィクトリアが泣いた後、すっと表情を変える数秒を確認するために、2度目を観たと思う。3度目があってもあの数秒のために観るだろう。
 
 
去っていくヴィクトリアの背中のショットから暗転してエンドロールが流れ、最初に表示された名前が撮影監督、ということは2度目で気づいた。撮影監督こそ最初に表示されるべき。そしてキャスティング担当は、キャスティングディレクターとは別に casting "Victoria”というスタッフが表示されたのが特徴的。その人がヴィクトリア役の女優を見つけてきた、ということかな。映画への多大なる貢献。一緒に観た友達は、やはりワンショットに衝撃を受けていた。そして「男たちが本当に、男たちよ…という描かれ方」「赤ちゃんのいる家庭に押し入る場面。ヴィクトリアが冷静に説得するそばで、興奮した男が銃を振りかざして威嚇して…まったくもう、落ち着いて。って感じよね」など、ぶつぶつ話しながら帰路についた。
 

 

2016-05-21

有楽町のロメール

 
 
ロメール特集、本日初日。待望の「モード家の一夜」を早速。
 
 
ここのところ生命力が落ちていたのに昼間から必要に迫られ買い物であちこち歩いたせいか、3分の1ほどは集中できずぼんやり、頭が冴えてる時でも理解は半分ほどではなかろうか。残り半分は哲学や宗教についての学びを積み上げないことには補えないだろう。アルメンドロスによって撮られたモノクロ映像を眺めていられるだけでじゅうぶん…ということもなく、やはりもっと物語の背景にあるものを捉えたいものだけど、小難しい話をしながらも男女のあれこれに繋がっていく練られた構造は頭の体操みたいだった。数年前に一度観た際の記憶はすっかり抜け落ちていた。何しろ上映の機会が希少なので期間中にもう一度観に行って記憶に定着させるべきか、考えどころ。
 
 
読売会館の壁面のロメールビジュアル。ビックカメラ、東京メトロのサイン、KEY COFFEEの広告に挟まれ仏蘭西気分も形無しのアジアっぽさで、味があって良い。ロメールの下の「中小企業を全力で応援したい」の広告は松岡修造の写真である。カオス。
 

 

2016-05-20

memorandom / Random cinema theater

 
 
 
Web magazine "memorandom" に久しぶりに書きました。Random cinema theaterはいろんな人が映画について書く新しいリレー連載。ドキュメンタリーというお題だったので、スコセッシ「イタリアン・アメリカン」について。
 
 
 
日本ではソフト化されていないけど、MoMAのフィルムコレクションからの1本で、東京のフィルムセンターがプリントを持っていたはず。2014年フィルムセンターのMoMA特集(その後、全国巡回した)で観て、今年アテネフランセでも再見。これからもまた上映の機会はあると思います。観るたびに私も実家に帰った気分に。
 
 
スコセッシのママ(Catherine Scorsese)は息子の仕事に協力ということか、スコセッシ映画にも女優として登場、料理本も出版する八面六臂の活躍。エンドロールで流れたミートボール入りトマトソースはシンプルな見た目に反して手のこんだレシピで、いつも手早く効率的に作ることしか考えていない私は平伏したくなるほど…。
 
 
 
 
デ・ニーロにも手料理を振る舞ったのか、この嬉しそうな顔よ。デ・ニーロ、食べてずるい!私も!と思っちゃうような、スコセッシのママであり、世界中の子供たちのママでもあるようなママで、パパもそうだった。
 
 
memorandomアーカイブはこちら

 

2016-05-19

家庭日記

 
 
シネマヴェーラで。清水宏「家庭日記」、ちょっとルビッチみたい…と、うっとりしながら観た。内容よりもリズムが。ほとんどの映画なら、あと5秒長く、もったりした音楽が流れ、観客の感情の抑揚をこれでもかと煽って次のシーンに移るところを、清水宏はばっさり斬る。そんな粋な省略が随所に。
 
 
30年代の東京も、撮り方のせいなのか、他の誰の映画で観た東京より室内の場面では天井も高く(宮殿のような映画館のロビーも登場!)、女たちの頭身もモダーンなバランス。「家庭日記」は1938年の映画。小津監督の「淑女は何を忘れたか」が1937年と時期も近く、どちらも桑野通子が出ているので、気がつけば比較しながら観ていた。
 
 
「淑女は…」小津監督のルビッチ心酔っぷりが衒いもなく表現された映画であるなぁ、と思ったのだけど、「淑女は…」と「家庭日記」は、女たちの描き方に決定的に違いがあるように思う。「淑女は…」を観終わった後、はたして淑女は何を忘れたのさ?とタイトルに立ち返ってみると、夫婦のたわいのない諍いを→夫が妻を平手打ちで諌め→夫が謝り→妻が、いえ私もいけなかったんですと謝り→エロティックな和解に至る。という筋書き、もしや淑女が忘れたのは…貞淑さ、いかなる時も夫を立てること…だったと言いたいのであろうか…と推測すると心中穏やかではいられなくなった。考えてみると小津映画、時折、男が女に手を上げる場面があったような。「風の中の牝鶏」も、手を上げられた田中絹代が階段落ちして亡霊のように立ち上がり、和解に至る流れ。あれ、「淑女は…」と同じ流れではないか。小津監督は好きだけど、男が女にに手を上げて、それが物語の要になるなんて、その点は旧時代の男性だったということか。ルビッチ映画で平手打ちがあったかは覚えてないけど、きっと手を上げるのは女のほうでしょう。
 
 
「家庭日記」に登場する女たち、30年代の日本女性らしく家庭を守る高杉早苗のような女もいれば、カフェの女給から内縁の妻になり煙草スパスパ吸う桑野通子、狡猾な佐分利信に捨てられながらも気丈に生きる職業婦人・三宅邦子、ニュータイプの香りがするその妹、4人の女たちはそれぞれの立ち位置で精神は凛と自立し、男に一発平手打たれようものなら、こちらは三発お見舞いするわ。など言いそうな強さがあった。洋装に帽子を斜めにキュッとかぶり4人並んで銀座の薬局に現れた場面は、30年代日本版SATCのようですらありながら、本家SATCなどより小股切れ上がり度は上であった。
 
 
はすっぱな桑野通子、何故彼女が水商売的職業に身をやつしたのか、一切説明しないのが潔い。溝口なら、ああ、可哀想な女たち。と憐憫で映画1本作って、涙ながらに啖呵を切る山田五十鈴は、自らの境遇を招いた社会、この歪んだ社会に啖呵を切っているのである…と湿度高めに終わりそうなものを、「家庭日記」の桑野通子が蔑まれて切る啖呵は、自分の尊厳を踏みにじったおっさんにストレートに向かうのであって、別に可哀想な女を代表していないし、そもそもあたし可哀想じゃないし。と、もっとシンプルな香りがして、その点、清水宏ってモダーンな人だったのだろうな、と妄想した。
 
 
この写真の桑野通子のワンピース、膝下丈でスカート部分はプリーツになっており、今年の新作と言われても遜色ない。女優に着せる衣装のセンスのいい監督は信頼できる。あのワンピース、着たい。

 

2016-05-18

2016/5/18

 
 
今週ずっと頭痛が酷く、不気味に口内炎も多発中。げんなり。帰り、有楽町で所用を済ませ、読売会館の壁面に「ロメールと女たち」のビジュアルを発見したので、前売りを買いにエレベーターに乗る。ロメールグッズなんて珍しいね!と、トートバッグつきのを狙ってみたけど数量限定で売り切れ。上映が始まればまた発売されるらしく、その時に手に入れることにする。
 
 
3週間、通いやすいタイムテーブルながら、こちらの都合と合わない時期のため、観るものを絞って予定を決め打ちしないと見逃しそう。「モード家の一夜」「レネットとミラベル 四つの冒険」「コレクションする女」が、今回はマスト。もし余裕ができれば「友だちの恋人」「クレールの膝」を無理のない範囲で。
 
 
チラシにある、白いコットンのキャミソールワンピースのポーリーヌの写真を観ていると、特集の開始とともに夏到来!の錯覚に陥るけど、日本にはこれから梅雨というものが存在するのだった。気圧の上下と偏頭痛がセットになってしまっており、梅雨を乗り越えられるか不安しかない。スクリーンに映るヨーロッパの湿度の低い夏を疑似体験して、なるべく頭痛を遠ざけねば。

 

2016-05-17

2016/5/17

 
 
京都の朝食。朝起きて→甘味は欲しいけど砂糖っぽいものは欲していない(砂糖っぽいもの=洋菓子、和菓子、パン類)→果物が望ましい→近くにフルーツパーラーはない→あ!と、開店直後に入店。二条若狭屋の苺氷。春先によく見かけた苺まみれのものを誰かが食べてる写真、指をくわえて見つつも仕事で軟禁されていたので、苺の季節の最後も最後に滑りこめて良かった。和菓子屋のかき氷らしく、底にうっすら餡が隠れているのが小憎い感じであった。
 
 
三島賞の会見、さっきyoutubeで観た。この方は教育者なのだなぁ。予習してこなかった学生には冷たく、それなりに身のある質問には答えてるものね。会見は講義ではなく、質問と応答で構成されている以上、話し手以上に聞き手に資質が問われるということも改めてわかった。
 
 
お話に出てくるジャズ評論家はきっと瀬川昌久氏のことで(シネマヴェーラで最近特集があり、「鋪道の囁き」上映後に登壇された際にお話も聞いた)、瀬川氏と三島由紀夫は確か学生時代からの長い友人関係にあったのではなかったか。12月8日は真珠湾攻撃の日。映画青年が伯爵夫人に出会って…というあらすじと、断片的に語られるエピソード…せっかくの会見なのだからそういうとこ質問してよ!受賞の知らせはどこで聞いたかとかどうでもいい!ボヴァリー夫人とかジョン・フォードとかキーワードも自ら出してるのにそこもっと詳しく!しかし小説を読む気満々になっているので、私に対する宣伝効果は抜群だったということか…文学賞の会見としては成功、ということなのかもしれない。

 

2016-05-16

しないこと

 
京都タワーって、
 
 
宇宙SFに出てきそう
ロケット…最新じゃなく一昔前のロケットっぽい
 
 
昨夜、近所の友人のリクエストで「インターステラー」を家のスクリーンで観た。ロードショーも名画座でも逃したけど、家のテレビサイズじゃなくて、なるべく大きなスクリーンで観たかったとのこと。私は丸の内ピカデリー、早稲田松竹で観てこれで3度目。どちらの映画館でもフィルムに撮影にこだわりのあるクリストファー・ノーランの望みどおり?フィルムで観られた。
 
 
さすがに3度目ともなると物語の展開はもちろん、セリフや宇宙にまつわる知識もそれなりに覚えてきていて「ワームホールの形状は?」と聞かれたら「球体」と即答できる私がいる。事前知識が必要なように思えて、そんな場面ではセリフの中でさりげなく用語解説していたりもして、練られた脚本だな、と思う。
 
 
いつも観終わると、クリストファー・ノーランの頭の中って…と他の映画でも思うことをしばらく考えるのだけど、彼が創造のための集中力をキープするために、携帯電話もメールアドレスも持ってないというエピソードが好き。アシスタントに連絡が入り、重要な案件はプリントアウトされて本人に届くらしい。
 
 
何かをするために、その人が決めて実行している「しないこと」に興味があって、クリストファー・ノーランの「しないこと」は真似してみたい。真剣に携帯を持たないことも考えてみたけど、フォローしてくれるアシスタントがいるでもなし、周囲を混乱させそうなだけだから踏みとどまった。持たないことはできないけど、集中力を削がれない工夫はできるはずと思って、あらゆるSNS(アカウントだけ保持して殆ど使っていない)のアプリをiPhoneから削除、電車の中では鞄にしまい本を読むという制限を始めてしばらく経つけど、これまでの人生で一番読書量が多かった高校時代と同じぐらい、今、本をたくさん読めている。示唆を与えてくれてありがとう、クリストファー・ノーラン!
 
 
その他のエピソードもなんだか微笑ましく、ジョブスみたいに洋服がユニフォーム化しているとか、紅茶好きでフラスコに入れていつも携帯してるとか、流行に全く興味なさそうで、頭の中は宇宙の妄想でいっぱい…な、クリストファー・ノーラン的人物、かなり好み。ずいぶん前に観たきりの過去の映画も改めて観てみるべく、冬のジョニー・トー祭に引き続き、初夏のクリストファー・ノーラン祭開催せねば…
 
 
と、さっき、ぼんやりクリストファー・ノーランのこと考えながらお風呂に入ってたら大きく揺れた。入浴中に大きく揺れたのが初めてで、成す術もなく混乱…。

 

2016-05-15

若き日の

 
 
シネマヴェーラ、清水宏特集へ。プログラムを観て、これぞと狙いを定めた「家庭日記(1938年)」を観た。桑野通子目当て。登場するたびに、みちこ!と心で呼びかける高揚感あり。みちこ以外に何も知らず観始めると、物語の中心は佐分利信だった。
 
 
佐分利信、若い…!1909年生まれらしいので、この時29歳か。小津映画での夫役、父親役の印象が強いせいか丸の内に勤め、なかなか出世もしている重役という印象ばかりのせいか、佐分利信にも20代が存在したのだなぁ…と感慨に耽った。もちろん誰にでも若き日はある。10代の佐分利信だって、生後3日目の佐分利信だってかつて存在したのだね…。
 
 
シネマヴェーラの次の次の特集はジョージ・キューカーだそうで、プログラムをいただいて帰る。意外なことにルビッチ「君とひととき」が上映されるようで、なぜルビッチ…?と思えば、この映画はルビッチ・サイレント時代の「結婚哲学」のリメイクで、ジョージ・キューカーが監督として撮ったもののラッシュを観たルビッチが気に入らず、途中から俺が撮るぜ、と現場を仕切り直したという、ジョージ・キューカー的にきっとほろ苦かっただろう映画。去年のルビッチ特集では「結婚哲学」との2本立ての日に年代順に観て、サイレント、トーキーどちらも良さがあると思ったけど、ルビッチに慣らされた身には違和感を覚えるセリフがあって、あの場面はきっとジョージ・キューカー監督パートだったに違いないと考えている。「女は間違う生き物だが、そこが可愛い。僕が守ってあげる」みたいなセリフだった記憶。ルビッチ絶対そんなの考えてもいないでしょ、そんな湿っぽいセリフがないからルビッチ好きなのに!
 
 
そんな「君とひととき」はモーリス・シュヴァリエ主演で、老いた印象が強かったせいか、モーリス・シュヴァリエにも溌剌とした若き日があったのだね…!と驚いた。西のモーリス、東の信。誰にでも若き日はある。

2016-05-14

ソロモンの偽証

 
 
体調が優れない日、早々に外出を取りやめ、家のスクリーンで借りっぱなしの映画を観ることに。昨年公開された「ソロモンの偽証」前後篇。宮部みゆき原作とは始まってようやく知った。校庭に雪の積もったクリスマスの朝、死体で発見された男子学生の死を巡り学校が騒めく。教師、親、報道に翻弄された生徒たちは、校内裁判を開くことにより自主的に真相を解明していく。
 
 
 
映画の撮影の主流がフィルムからデジタルに移行してから上映時間はどんどん延びており、3時間以上の映画がゴロゴロ。さらに最近の邦画は動員数を増やすための苦肉の策なのか、前後篇に分かれるものが出現し、1ヶ月ほどの時間差で公開を追いかけないと1本の映画を観終わることもできない。「ソロモンの偽証」も前後篇、合計4時間以上。身体を休めるためソファに横たわり適当な気分で観ていたので、映画館で観るほどの気合は不要だったけど、振り返ってみるとこの物語を語り終わるのに果たして4時間必要なのか。前篇は事件の概要と登場人物のキャラクター紹介、後篇は裁判で人物の相関と事件の真相。学校ものとはいえ主要人物はさほど多くなく、キャラクターの奥行きも時間をかけてじっくり説明しないとわかりづらいね…と思うほど複雑ではない。大人の事情があったのであろうか…。
 
 
不在ながら事件の中心にいる亡くなった男子学生の、暗さゆえの鋭さで他者を支配しようとする様は、彼がそんな思考に至る背景があまり描かれなかったせいか、やや不快。現実に遭遇したら一目散に逃げたくなるだろう。誰にでも、他者の人生を断罪する資格はない。大人になると、不快な人物からはそっと距離を置くという方法を選択できるけど、学校生活では難しく、また彼らもそんな処世術は未だ身につけていない。彼のために残された学生たちが心乱されながら議論する様子は痛ましく、つまり私はこの映画を観るのに向いていない、ということを4時間観た後に思う。しかし彼が乱した後の世界を秩序をもって整えんとする集団の中心にいる藤野涼子という女優が素晴らしく、肝の据わった低い声でビシッと台詞を発声するたびに、ああ、彼女を観るだけでも4時間この物語につきあった甲斐があったな、とも思った。
 
 
藤野涼子、映画の役名と芸名が同じで、この映画の大規模なオーディションで発掘されてデビュー。4時間の映画で主役をいきなり演じた後、しばらく学業に専念するために休業するそう。まだ何の色もついていない状態で映っていたせいか、本人の潔さそうな佇まいが役柄とリンクしていた。
 
 
昨秋、長野で開催された小津安二郎記念映画祭で上映されていたこの映画は観なかったけど、2日目の朝、小津監督が篭って脚本を書いた無藝荘という場所に山を登るバスに乗り見学に行った時、映画祭のゲストたちが先に着いていて、さして見学場所の多くない屋内で、囲炉裏端で話を聴いていたら、先客の中に成島出監督と藤野涼子さん、スタッフの方がいたようで、この!!!という状況は映画を観ていたらもっと!!!だったのだろうな、と思い、東京に戻ったら「ソロモンの偽証」を観よう、と決めたのだった。実物の藤野涼子さんは、映画とさして乖離のない落ち着いた印象で、あの囲炉裏端の女性が制服を着てそのまま映画のスクリーンに映ることに何ら違和感を覚えない。
 
 
長さ然り、いろいろ言いたくなる映画ではあったけど、いつか学業の落ち着いた年齢に達した頃、「ソロモンの偽証」とは系統の違う映画で、また藤野涼子さんとスクリーンで再会してみたい。
 
 
…と、調べてみたら、黒沢清監督の新作に出演するとの情報が。楽しみ。

 

2016-05-13

Cinema memo : Cannes2016

 
 
京都でいただいた干菓子が可愛くて…。みっしりした完全なる均衡を私の手ごときが壊して良いものか。和菓子の名前を正確に覚えることにして、鍵善良房「園の賑い」。『むかし祇園祭に あでやかな女人たちが、それぞれに装いをこらした行列「園の賑い」がありました。』
 
 
これからの季節の手土産として重宝する干菓子。去年、灼熱の北京で友達に渡した手土産も干菓子だった。とりたてて話題にすることは少ないものの、案外、干菓子を好む人は多い、という最近の発見。ありがとうございました。
 
 
海の向こうで始まったカンヌ映画祭、賞レースよりも、どのような傾向で映画が選ばれているのかに興味が湧くように。東京国際映画祭のディレクターの方の日記更新が楽しみな日々。
 
 
そうは言ってもお祭りだもの、新作を携えてレッドカーペットを歩く華やかな女優たち。「シルス・マリア」での存在感が素敵だったクリステン・ステュワートは、引き続きオリヴィエ・アサイヤスの新作にも出るようだし、ウディ・アレンの新作にも。アレンのほうは30年代のハリウッドを舞台に、ジェシー・アイゼンバーグと共演とのことで、好みの要素もたっぷりと、公開がもう楽しみ。

 

2016-05-12

モダーン

 
 
小雨降る京都、重森三玲庭園美術館の茶室。こちらは上がることはできず、外からの見学。昭和の建物で、設計も内装も重森三玲によるものだそう。照明も重森三玲によるデザインで八角形。そういえば以前、寺町三条の三嶋亭の二階ですき焼きを食べた時も、テーブル、ロビーの椅子その他さまざまなものが八角形だった。末広がり。
 
 
このモダーンさ、グラフィカルな小津映画、市川崑映画、奇抜な鈴木清順映画のセット、それから大映全盛期の、謎のセンスだけどやたらお金はかかってそうな前衛的なセットに通じるものがあって、つまり私好みだな、と思いながら観た。
 
 
例えば増村保造の「美貌に罪あり(59年)」の最後、どこの国の何からインスピレーションを得たのか、ごった煮すぎてもはやよくわからないセット、照明、勝新太郎と山本富士子の衣装など…
 
 
 
 
…にも、こういったモダーンさが極端なところまで行き着いてしまった、しかし延長線上にあるように思う。和菓子の造形にも時折、過激なモダーンさを感じるものがあり、私の愚鈍な味覚は甘みのグラデーションを感じることにおいて疎く、結局どれも砂糖の味がする…と思いながらも、視覚に刺激されて和菓子には手が伸びてしまう。
 
 
そういえば「美貌に罪あり」は最近Blu-rayが発売されたようで、レンタルもあるのかしら。あの映画について!!!!!!と話せる人が増えてほしいのでいろんな人に勧めたい。川口浩が出てるというのにほとんど記憶に残らず(私としたことが!)、勝新たちがこんなセットで踊ったというのに、観終わってみると杉村春子のことばかり考えてしまう、不可思議な手触りの映画だった。

 

2016-05-11

京都の鷗外

 
 
京都、アスタルテ書房の扉の前で。初めて開けた時の緊張をいつまでも忘れない、ということか、いい大人になっても階段を上がってこの前に立つと、やっぱり気軽には開けられなくて、ふっと深呼吸していた。
 
 
店主が去年亡くなり、閉店セールが長引いているようで、また行くことができた。ずいぶん売れてしまったのか、店内は少しガランとしており、かつての、あの密度こそがアスタルテ書房だったのだな、と思う。緊張しながら扉を開けて靴を脱いで上がり、みっしりとした棚の前に立ち、秘密とは掻き分けた先に見つけるものだった。
 
 
金子國義、澁澤龍彦、バタイユ…きっと最後だろうから、いかにもアスタルテ書房らしい1冊を記念に選ぶべきかと考えたけど、いつも自分に引き寄せて映画の本しか買わなかったことを思い出し、不自然なことはやめる。しかしめぼしい映画の本はもはやなかったので、大好きな鷗外「雁」が収録された60年代の1冊を購入。家族の方が店番をしていると伺ったように思うけど、お会計してくださった女性は奥様だったのかな。
 
 
 
 
手渡すと、おもむろに包み紙を取り出し、本のサイズにその場でカットして包んでくださった。何でもあっけなく捨ててしまう私だけど、この包み紙は捨てないだろう。
 
 
鷗外といえば年明け、坂の上の鷗外記念館であった「奈良、京都の鷗外」という展示。
 
 
この展示で初めて知ったことに、鷗外は仕事で奈良と縁があり、正倉院のお蔵の開け閉めに立ち会う公務にしばらく携わっていたとのこと。展示はその頃、奈良に滞在しながら休みの日にはお寺をまわったりしたことが綴られた日記や、東京にいる子供たちに宛てた絵葉書が展示されていた。
 
 
 
 
なんでもない観光地で売られている絵葉書の、写真の退色や字体、きちんと古びていていい。任期の最初の頃は子供たちも小さかったのか、大きめのカタカナやひらがなで書かれていたのが、後半は子供も成長したということか、漢字の分量が増えていた。面白いことに、鷗外の短期滞在にあたって奥さんが用意して奈良に送ったという布団一式が展示されていた。底冷えする極寒の奈良の夜…これぐらい分厚くないと耐えられないわ…という、ずっしり重そうな布団で、奈良の寒さまで慮った、なんてよくできた奥さんなのだろう、と奈良人として感心。そして奈良に向かう道中で京都に立ち寄り、菓子と本を買うのが楽しみ、と書かれていて、東京での住まいも近所だし、奈良に移動する途中、京都で買うものまで私と同じ…鷗外ときゃあきゃあとどこの菓子屋の何が美味い、買うべし。など、たわいない話をしたいものだわ、と思った。
 
 
そして映画版「雁」については、若尾文子版、高峰秀子版の存在を知りながら、未だ観る気にならない。観てしまうと、もう私のお玉さん像が上書きされてしまう気がして。貧しさゆえに囲われた女に自我が芽生えていく過程が描かれ、若尾文子、高峰秀子は自我が芽生えた後のお玉に照準を定めたキャスティングのように思う。こう、芽生える前のお玉に照準を定め、え、こんな儚げな女が…という意外性のあるキャスティングのほうがしっくりくるのよね。今のところ最も近いのは新珠三千代で、漱石「こころ」の先生の奥さん役があまりにハマリ役だったという成功例からの妄想キャスティング。

 

2016-05-10

Cinema memo : FAKE



雨宿りと時間潰しの場所を探して、他に何もない場所だったので入らせてもらった京大キャンパス。カフェテリアっぽいスペースで自販機の70円コーヒー飲みながら、外の緑を眺める。京都、ずっと曇りか雨だったけど、新緑が眩くて窓際の席に座るとどこでも時間を忘れて緑ばかり見た。


他の予定を優先しがちで最近崩れ気味な映画の予定。どこかで予告編を観て、こんな映画が公開されるなんて‼︎と興奮した「FAKE」、6月4日から公開と手帳にメモした。佐村河内騒動を森達也監督が映画化…!監督の名前も随分久しぶりに耳にしたように思う。



既に始まっている試写では、意味ありげなラスト12分については決して口外しないこと、という箝口令が存在するとのこと。 これが名前も知らない監督だと下世話な興味を隠せない自分に嫌気がさしそうなものを、やっぱり森達也、観たいよね。と大義名分つきで大変楽しみ。


忙しい時期、軽く読めるものを、と借りた阿川佐和子さんの文春の対談連載をまとめた聞く力文庫というシリーズの傑作選を、他の人の対談目当てで借りてみて、どの人も興味深く読んだのだけど、中間あたりにあったキダタローが、あの飄々とした口調でしかし騒動の本質にズバッと迫るような発言をしており、さすが浪速のモーツァルトやな。と思いながら読み進めると、トリを飾る対談は新垣隆さんだった。どう読んでも隙だらけで、そこに阿川さんがツッコミながら斬り込み、最後は母のように心配するという締め方だった。この2本の対談をセットで読めて満足だった。

2016-05-09

愛鳥週間

 
 
明日から1週間、愛鳥週間なんだそう。何故、唐突にそんなことを思い出したか考えてみると、GW初日に部屋の紙モノ整理していて、はらっと本棚の下の隙間に落ちた手紙を数日放置していた罪悪感からかしら。友達から届いたらペンギンのフォルムのカード。ファンシー度が微塵もなく目つき鋭め、立体的で自立もする凝った異国製のカード。拾ってファイリングした。間もなく愛鳥週間だからね。
 
 
 
 
そして、借りていたこちらの本を、連休明けのぼんやりした頭で、朝の通勤電車で読む。主人公が迷い込んだ四次元空間は鳥しかいない場所だった。
 
 
 
伝票がどうとか、というセリフもあって、経理っぽい仕事をしてる女性なのだけど1人オフィスでカタカタ残業中、ふと、なにもかも忘れてゆっくり休みたい…と妄想すると、黒い鳥がやってきて「その願望、実現させてみませんか」と誘う。最後まで読むと、幼くして別れた友達の「未来で待ってる」ならぬ「四次元で待ってる」という物語で、狐に…いや、鳥につままれた気分で筋書きを追いつつしんみり切なくなった。
 
 
「給水塔占い」が途中に登場し、それは何?と思っていたら、作者のフジモトマサルさんのサイトにあった。私は好奇心旺盛で、細かなことを観察する能力にたけている「堅牢ドーム型」だった。当たってる気がする…。
 
 
 
 
そしてそして。鳥で思い出すのは断然ヒッチコック「鳥」!ヒッチコックの中でもとりわけ好きなのは、鳥をたくさん観られるから…ではなく、ティッピ・ヘドレンが美しいから。私の中でベストオブヒッチコックビューティーはティッピ・ヘドレンである。
 
 
そんな美しいティッピ・ヘドレンが凶暴化する鳥に痛めつけられるわけだけども、ヒッチコックはティッピ・ヘドレンにご執心で、迫ったけども断られ、腹いせに…フェイクの鳥で撮影すると嘘をつき、本物の鳥を使ってティッピ・ヘドレンを襲撃させたという撮影秘話を耳にしたことが…。どのカットがそれかわからないけど、どこかに本気で怖がるティッピ・ヘドレンが含まれている映画。それにしてもセクハラ、パワハラに抵抗するとまさかのバードハラスメントを受ける恐怖の職場。ヒッチコックに執着される美人女優たち、本当にお疲れ様でした…。
 
 
愛鳥週間って何をすればいいの、と思えば、野鳥保護思想普及のために設けられた週間とのこと。私は部屋にたくさんいる、黒と白の飛べない鳥たちに普段より優しくしようと思う。

 

2016-05-08

猟銃

 
 
「猟銃」、パルコ劇場で上演されていたものを見逃し、ふと調べてみると、京都を発つ日が京都初日、観終わった後でも新幹線最終には間に合い、チケットもまだあるらしい。観ない理由がなくなった。昨夜、岡崎のロームシアターで。
 
 
 
 
井上靖の原作を、カナダの演出家フランソワ・ジラールが演出。不倫した男をめぐる3人の女、愛人の娘、妻、愛人による3通の長い手紙で構成される原作に忠実な戯曲。舞台の上には男を演じる俳優がいるものの、後方で静かに動くだけで言葉を発しない。そして主演・中谷美紀が3人の女を1人で演じる。1時間40分の間、一度も舞台から去らず、衣装と声色を変え演じ分けていく。沈黙の時間は多くなく、ほとんどの時間、台詞を喋り続ける。
 
 
映画に比べると舞台を観た回数は少ないけど、これまでの観劇経験で間違いなく最高だった。照明は暗く、表情の変化は完全には捉えられなかったけれど、語りと動き、ミニマムながら摩訶不思議な舞台装置のわずかな変化、音を捉えながら、ささやかな、けれど生死を揺るがすほどの激しい愛の物語に前のめりで没頭しながら、それらがたった1人の女優によって伝えられていることに最後まで驚くほかになかった。
 
 
扇情的な赤いドレスで、愛のない結婚生活に退屈し放蕩生活を送る妻は、高慢な口調の隅々に愛されぬ口惜しさを存分に漂わせ、振り返れば彼女だけがあの男を愛していたのだと思う。髪を振り乱して妻がひとしきり叫んだ後、すっと魂が抜けるように最後の一役、愛人に替わり、赤いドレスを脱ぎスリップ1枚になった身体に襦袢を纏い、腰紐で身体を締め付け、着物姿をゆっくりした動作で完成させていく動きは舞踏のようだった。その間、すっと正面を向いたまま台詞を放ち続ける。着物も帯もそのまま死装束を連想させる白で、かろうじて身体だけこの世にいるものの、魂はすでにあちらに旅立ってしまったような朧げな立ち姿から、最後の秘密が打ち明けられた。
 
 
演技も演出も非の打ち所がないものながら、原作の強さを感じる。原作を予習して来なくて正解。長さはあるものの、物語はとてもシンプルで登場人物も要素も少ない。物語の鍵になる華やかな羽織が、衣装として登場しないのも想像の余白を残しており良かった。何故、カナダの演出家がこの小説を選んだのかな?と思えば、翻訳版があり、いつか舞台にしたいと考えていたらしい。最後の愛人の表現が最も好きだけど、どの役も全く違う女がそこにいて、灯りがついて何度かカーテンコールで登場した時だけ、テレビや映画で見慣れた中谷美紀の雰囲気だった。今回は再演で、数年前の初演の際、最初にオファーされた段階では、3役のうち誰を演じたいか、という問いかけがあったのを、どの女性も魅力的で選べない、3人とも演じてはいけないか?と問い返して一人芝居の形式にすることが決まったそう。それまで舞台に一度も立ったことがなく、初舞台で一人芝居。大胆ながら、この物語は一人芝居が似合う。3人の女、誰の中にも誰もがいるし、女を構成する成分が分散して3人を象っていた。私は、誰の気持ちもわかる、と思いながら観た。
 
 
観終わると急いで京都駅に向かい、のぞみの車中で原作を注文した。きっといくつになってもそれぞれの年齢ならではの新たな魅力を加えていける物語だと思うので、これから何度も再演して欲しい。次があれば、もっと前の席で観られるように万全の体制でチケットをとろう。志の高いものを観た後にだけある、自分も自分の領域であれぐらい頑張ろうという感情が湧いた。
 
 
そしてつらつら考えたことに、原作が発表されたのが1949年、その後の日本映画の華やかな時代に、こんなよくできた物語を当時の映画会社が放っておくとも思えない。脳内キャスティング。岡田茉莉子はきっと必ずキャスティングされてて妻か愛人、どちらか、どちらでもいけるけど妻かな。と調べてみたら、やはり映画化されていた。大映を想定していたけど、意外なことに松竹。
 
 
「猟銃」映画版は1961年の映画。監督は五所平之助。
 
 
 
気になるキャスティングは…不倫する男に佐分利信、愛人に山本富士子、妻に岡田茉莉子(当たり!)、愛人の娘は鰐淵晴子、愛人の元夫は佐田啓二。 おおお。なんてイメージ通り。そしてこの頃の俳優陣は本当に層が厚い。佐分利信というのが松竹らしくていい。大映だったら不倫する男に田宮二郎、愛人に若尾文子、妻に岡田茉莉子、娘は保留、愛人の元夫は船越英二なんてどうかしら。そして監督が増村だったら、だいぶ濃い…「不信のとき」ばりのハイカロリー映画になりそう。
 
 
「猟銃」が名画座にかかった記憶がないのだけど、知らないだけで時々かかっているのかもしれない。観たいな、と思ったらyoutubeに全部あった。恐ろしい時代…。ひとまず原作が届いたら読み、舞台の記憶をもう一度ぎゅっと抱きしめ、その後で意を決して映画を観ようかな。

 

2016-05-07

左京区のモンロー

 
 
昨日のこと。京都は小雨、肌寒かったけれど、見学予約をしていたので、吉田神社の麓あたりへ。重森三玲記念館。
 
 
 
庭園の見学は必ずしも、過ごしやすい季節の晴れた日が正解ではなく、苔の茂る庭においては、鮮やかさが増す雨の日、雨上がりこそ最適、と説明を受ける。厳しい夏の日は苔も色褪せるから、11月から1月が好ましいとのこと。旅行に行くと晴れますように、過ごしやすい気温でありますようにと思ってしまうけど、観光地育ちなので、気候のせいで人の少ないオフシーズンこそのんびりとした街が見られていいのでは…と余計なお世話で考えたりもする。大人になったことを自覚したのは、奈良の底冷えに凍える唐招提寺の冬枯れの庭の美しさに気づいた時だった。
 
 
見学を終えて外に出ると吉田山の麓で、吉田神社の鳥居が見えていた。記念館は重森三玲の住居だった場所で、その前は吉田神社の神官の住まいだったとのこと。学生の頃、授業サボってバイクの後ろにぶーんと乗せてもらい、吉田神社の境内でぼんやり読書に耽ったりしたなぁ。もしかしてあの頃以来の再訪ではないだろうか…と、遠い目で歩いていたら、…ん?…!!!!!!と、立ち止まって撮影。あたりに誰もいなかったけど、何故こんなところ撮ってるのか不審者みたいだっただろうな。
 
 
 
 
夢楼!!と書いてモンロウと読む…!!モンロウって「夢楼」の中国語(普通話)読みなのだ。この名前つけた人、モンローファンで中国語に縁がある人なのでは…?それだけの共通項で仲良くなれるか不明だけど、名付けたの誰ですか…!と大興奮。さすがに知らないお家の呼び鈴を鳴らすような不届きな真似はせず(写真撮ってるだけでじゅうぶん不届き…)成す術もなく夢楼の前を去った。探偵ナイトスクープに投稿しようかしら。夢楼、大学の周りにありがちなワンルームがいくつか連なった2階建ての小さなアパートだった。夢楼とは、大きく出たね…。

2016-05-06

Sarah Moon

 
 
京都で開催されている写真のイベントKYOTOGRAPHIE、毎年うまくタイミングが合って、移動途中に観られる範囲でひとつふたつ選んで観るのが楽しみ。美術館やギャラリーで観られるものでは写真が一番好き。現実が写ってるからかな。映画もそうだけど。
 
 
何必館にサラ・ムーンのあらかじめ定められたお似合い度はもはや「夜空に星」の領域で。地下一階の魯山人コレクションも続けて観た。祇園のギャラリーらしく、和のしつらえがあちこちに。
 
 
 
 
4階だったか、の奥にあった映画館を撮った、その名も「THE CINEMA」という1枚、1995年。サラ・ムーンであれば、華奢で少し朽ちかけている小さな映画館が似合いそうなものを、意外なことに野外上映会場を写したものだった。スクリーンの左右に絵が描かれていて、簡素なパイプ椅子が並び、人間は誰もいない。どこかにそんな場所があったのだろうけど、この世のものとは想像し難い風景で、都市の外れだったとしても地の果ての香りがした。あのスクリーンなら何の映画が似合うかな…と、ビジュアルをあれこれ脳内合成。
 

 

2016-05-05

こども

 
 
こどもの日。子供の出る映画って、どうしても子供に目が奪われて映画全体を見渡せず、そして高め安定の感想…良かったなぁ…子供…と思いがち。小津、清水宏、木下恵介は「二十四の瞳」、ラモリス「赤い風船」、子供の演出のうまい監督はたくさんいるけれど、私が特に好きなのはトリュフォー「思春期」。
 
 
冒頭、高低差の激しい小さな街を少年たちが大騒ぎで徐々に合流して学校に走っていく、登校シーンから胸がいっぱい。「赤い風船」でも思ったけど、ヨーロッパの子供映画、誰かのお下がりなのか、長い間使えるようにということなのか鞄がおじさんが持ってる革の書類鞄みたいで、カジュアルな洋服とのミスマッチ感。「赤い風船」のあの子なんて、パジャマみたいな上下に鞄だけ渋かった。「思春期」でもそんな子供たちの大群を目撃できる。
 
 
ちょっとした恋が生まれかけたり、映画館の場面が出てきたり(映画館の場面がある映画はだいたい良い映画)、危険な動きをする赤ちゃんを見守ったり、ちょっと複雑な家庭の子が出てきたり。
 
 
最後の場面、ヴァカンス前の学校で担任の先生が語る長いセリフにトリュフォーの言いたいことは全部入っていたように思う。トリュフォー自身の思春期をきっと投影しただろう物語でもあり、私は小さい頃の自分をトリュフォーが抱きしめてくれる映画のように思えた。
 
 
 
 
撮影中のトリュフォー。ゴダールより断然トリュフォー派!トリュフォーが書いた原作の山田宏一さんによる翻訳版「子供たちの時間」は、映画を観た後に、あの先生の長ゼリフを何度もちゃんと読みたくて古書で購入。和田誠さんの表紙も素晴らしい。

 

2016-05-04

みどり

 
みどりの日。朝、緑の濃淡の見える部屋。
 
 
 
緑の飲み物と食べ物。
忍者でお馴染みの場所、生菓子に手裏剣の模様が。
 
 
 
 
午後、緑の冷たい食べ物。今年は積極的にかき氷を食べる所存。
 
 
 
 
新聞の1面も緑緑していた。緑といえば…単純ながら「緑の光線」。物語の最後を珍しい自然現象を固唾をのんで見守るという観客の反応に委ねた大胆な映画ながら時間を追ってヒロインの行く末を目で追っているうちに最後には必ず彼女と一緒に固唾をのんで水平線を見つめるはめになる。緑の光線、家のテレビサイズでは見えづらいけど、映画館のスクリーンなら見える。見えなかったことはない。
 
 

太陽は赤・黄・青の光を発しており、一番波長が長いのは青い光。太陽が水平線に沈む瞬間、青い光が最後まで残り、周囲の黄色と混じり緑の光線して見える。見た人に幸運が訪れる、とか。

 
 
 
 
緑…他には…?と思いついたのがベタながら「緑色の部屋」。トリュフォー自身が主演しており、自らの死期を悟ったかのような不穏な映画だった。タイトルに緑がつく映画って少ないのでは…と考えていたら、トリュフォーも緑色の名前のつく映画があまりないからつけてみた…というシンプルな理由だったような。亡くなった妻の遺品を集めた部屋がすなわち緑色の部屋で、とにかく死に取り憑かれた映画だった。
 
 
緑、みどり、vert/verteとタイトルを思い起こしてみて2本しか思いつかなかったけど、greenとなると山ほど思い出しそう。来年のみどりの日までに、いろいろ思い出しておかなくちゃ。
 
 
そして5月4日はスターウォーズの日(may the force be with you = May the 4th)なのね。だからDVDの発売日が5月4日だったのか。ANAのスペシャル映像が素敵。

 

2016-05-03

2016/5/3

 
 
朝の東京駅は改札に辿り着くまでに数分、というレベルで混んでいた。
 
 
借りっぱなしで昨夜ようやく観た「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」が想定外の良さ。結局1人で観たけど、一緒に観る予定だった友達に興奮気味に報告。以前、私が薦めた「物語る私たち」という、ここ数年観た新作ドキュメンタリーで最も好きだったものに、少し似た手触りがあったと伝えると、友達も借りてみる、とのこと。
 
 
居なくなった人について、複数の人物が証言するスタイルが好き。小説でいえば有吉佐和子「悪女について」など、読んでる間、内容よりその形式にうっとりしたなぁ。思い返してみれば、追悼の文章を読むのもすごく好きなのだった。これはどういった嗜好であろうか。「物語る私たち」も「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」も、そんな映画だった。頭の中でしばらく転がしてみる。
 
 

 

2016-05-02

銀座のBB-8

 
 
昨日、用事を片付けるのに大手町から日本橋を経由し、銀座まで。銀座、耳に届く言語がほとんど外国語だった。靴や化粧品、買いたい気持ちはあるのだけど、そんな銀座の雰囲気に気後れし、教文館の本棚の間で一息つく。考えてみると本屋に観光客は少なく、ローカルな場所なのだな。地図や東京のガイドブックのエリアをちらほら見かけたぐらい。店員さんも慣れた様子で地図の棚まで案内してた。
 
 
山野楽器の前を通りかかると、スターウォーズアイテムがいくつか目に入ったので近寄ってみる。「フォースの覚醒」のDVDがもう発売されるらしく、先行発売で様々な種類のパッケージが売られていた。
 
 
映画館でもう観たし、DVDは買わないので眺めるだけ、久しぶりに視界をスターウォーズでいっぱいにしていたら、目の端にあの子が…!BB-8‼︎
 
 
裏面はDVDの案内。ボーナス映像もたくさん、らしい。ふむふむ…。
 
 
ファイリング熱が覚めないうちに「アメリカ映画」のファイルにしまおうかと思ったけど、しばらく本棚に飾っておくことにする、かわいいから(目尻を下げながら)。