CINEMA STUDIO28

2016-05-19

家庭日記

 
 
シネマヴェーラで。清水宏「家庭日記」、ちょっとルビッチみたい…と、うっとりしながら観た。内容よりもリズムが。ほとんどの映画なら、あと5秒長く、もったりした音楽が流れ、観客の感情の抑揚をこれでもかと煽って次のシーンに移るところを、清水宏はばっさり斬る。そんな粋な省略が随所に。
 
 
30年代の東京も、撮り方のせいなのか、他の誰の映画で観た東京より室内の場面では天井も高く(宮殿のような映画館のロビーも登場!)、女たちの頭身もモダーンなバランス。「家庭日記」は1938年の映画。小津監督の「淑女は何を忘れたか」が1937年と時期も近く、どちらも桑野通子が出ているので、気がつけば比較しながら観ていた。
 
 
「淑女は…」小津監督のルビッチ心酔っぷりが衒いもなく表現された映画であるなぁ、と思ったのだけど、「淑女は…」と「家庭日記」は、女たちの描き方に決定的に違いがあるように思う。「淑女は…」を観終わった後、はたして淑女は何を忘れたのさ?とタイトルに立ち返ってみると、夫婦のたわいのない諍いを→夫が妻を平手打ちで諌め→夫が謝り→妻が、いえ私もいけなかったんですと謝り→エロティックな和解に至る。という筋書き、もしや淑女が忘れたのは…貞淑さ、いかなる時も夫を立てること…だったと言いたいのであろうか…と推測すると心中穏やかではいられなくなった。考えてみると小津映画、時折、男が女に手を上げる場面があったような。「風の中の牝鶏」も、手を上げられた田中絹代が階段落ちして亡霊のように立ち上がり、和解に至る流れ。あれ、「淑女は…」と同じ流れではないか。小津監督は好きだけど、男が女にに手を上げて、それが物語の要になるなんて、その点は旧時代の男性だったということか。ルビッチ映画で平手打ちがあったかは覚えてないけど、きっと手を上げるのは女のほうでしょう。
 
 
「家庭日記」に登場する女たち、30年代の日本女性らしく家庭を守る高杉早苗のような女もいれば、カフェの女給から内縁の妻になり煙草スパスパ吸う桑野通子、狡猾な佐分利信に捨てられながらも気丈に生きる職業婦人・三宅邦子、ニュータイプの香りがするその妹、4人の女たちはそれぞれの立ち位置で精神は凛と自立し、男に一発平手打たれようものなら、こちらは三発お見舞いするわ。など言いそうな強さがあった。洋装に帽子を斜めにキュッとかぶり4人並んで銀座の薬局に現れた場面は、30年代日本版SATCのようですらありながら、本家SATCなどより小股切れ上がり度は上であった。
 
 
はすっぱな桑野通子、何故彼女が水商売的職業に身をやつしたのか、一切説明しないのが潔い。溝口なら、ああ、可哀想な女たち。と憐憫で映画1本作って、涙ながらに啖呵を切る山田五十鈴は、自らの境遇を招いた社会、この歪んだ社会に啖呵を切っているのである…と湿度高めに終わりそうなものを、「家庭日記」の桑野通子が蔑まれて切る啖呵は、自分の尊厳を踏みにじったおっさんにストレートに向かうのであって、別に可哀想な女を代表していないし、そもそもあたし可哀想じゃないし。と、もっとシンプルな香りがして、その点、清水宏ってモダーンな人だったのだろうな、と妄想した。
 
 
この写真の桑野通子のワンピース、膝下丈でスカート部分はプリーツになっており、今年の新作と言われても遜色ない。女優に着せる衣装のセンスのいい監督は信頼できる。あのワンピース、着たい。