連休に帰省した関西では、奈良・京都界隈で景色や美術、美しいものをたくさん観たけど、最終日、朝食をとるために適当な店に入り、窓際の席でひたすらぼんやりした時間のほうが何よりも濃い印象を残している。30分ほどで出るつもりが珈琲をおかわりし、1時間ほど延長して外を見ていた。東京でも、週に30分でもこんな時間があれば思考をもっと遠くまで巡らせることができそうだけど、生活者として暮らす街と、土地勘はあれど生活はしていない街だと実生活との距離感のせいか、思考に入り混じる雑念の分量が違いすぎる。
東京でぼんやりすることを目的にわざわざ行く場所、好んで行く喫茶店などは、穴蔵のように壁面に囲まれた地下の店だったりして、こんなふうに明るい外を見られる場所なら、エアポケットのようなあの時間を東京でも味わえるのかもしれない。
暗い場所から明るいほうを見ることを好むのは、映画館でスクリーンを眺めるのを好むということと同じ嗜好なのかもしれない。去年読んだ「映画館と観客の文化史」で、アメリカの初期の映画館はヴォードヴィルシアターから映画館に変化したパターンに加え、教会から映画館に変化したパターンも多かったと書かれていた。暗くならないと営業を始められないドライブインシアターは、昼間、教会の布教活動によく使われたという歴史も。多くの人を収容でき、ひとつ方向に向かって座席を配置する点で、教会と映画館は共通している。そして暗い場所から明るいほうを見る時、人はそこに映っているもの、そこにあるものを信じやすい、ということなのでは。と考えたのだけど、ただ単に私が、ぼんやり明るいほうを見ることを好むがゆえの発想なのかもしれない。
御池通の新緑。