CINEMA STUDIO28

2015-08-31

L'heure bleue

 
 
今年の東京の夏、楽しく遊んでいたらいきなり玩具を取り上げられ、きょとんとした後に泣いてる子供のような気分。明日から9月だけど遅くはない、ちょっと返してほしい、半袖あまり着ないまましまうのは切ないし、かき氷だってあんまり食べてない。
 
 
 
今年の初め頃、寒くて夏という季節の存在を信じられなくなったので「海辺のポーリーヌ」を借りてきてロメールで暖をとった。夏の最終日、観たいのは「レネットとミラベル 4つの冒険」の最初の一篇「青の時間」かな。都会から来たミラベルがヴァカンスで訪れた田舎で、そこに住むレネットに出会う。同じ年頃の2人は仲良くなり、お泊まり会したり、庭にテーブルと椅子を出して食事したり。そしてレネットは「青の時間」についてミラベルに教える。
 
 
  • Reinette :Tu connais l'heure bleue ?
  • Mirabelle :L'heure bleue ?
  • Reinette :En fait, c'est pas une heure, c'est une minute. Juste avant l'aube, y'a une minute de silence. Les oiseaux de jour sont pas encore réveillés et les oiseaux de nuit sont déjà couchés. Et là, là c'est le silence... Quand j'étais petite, je demandais à ma mère de me réveiller juste pour cette heure-là.
 
 
青の時間って知ってる?
青の時間?
時間じゃなくて、瞬間かな。夜明けのすぐ前、世界が沈黙に包まれる瞬間があって。昼の鳥はまだ起きてなないし、夜の鳥はもう眠ってる。だから、沈黙なの。小さい時はママに頼んで「青の時間」のためだけに起こしてもらってたのよ。
 
 
 
「レネットとミラベル 4つの冒険」は滅多に上映されず、ソフト化もされていないはず。いつでもあの映画観たいなぁ、かからないかなぁ、と思ってる1本なのだけど、ある日、これは「青の時間」では?と思うものに出会った。
 
 
何年か前、竹橋の近代美術館で「日本画の前衛」という素晴らしい美術展があり、ふらっと観に行って出会った船田玉樹という画家の「暁のレモン園」という絵。暁、なので、レネットの説明よりは少し昼寄りの時間かもしれないけど、ロメールのフィルムを映画館で観ていた時と、この絵の前に立った時の感覚は限りなく似ていた。
 
 
映画も絵も、簡単に見られないから焦がれてしまうのだろうな。夏も短いから焦がれるのだろうか。

 

2015-08-30

Hotel Okura Tokyo,2015

 
 
市川崑の映画の、例えば「ぼんち」の一場面。日本家屋を真上から撮り、画面上半分は屋根、下半分は道路、真ん中にすっと直線があって。若尾文子が登場する時、直線の下半分にすっとピンクの番傘の丸が登場して玄関の位置まで移動する。こういったグラフィカルな場面が連続することに目が歓び、そして直感的にオークラのロビーを思い出していた。オークラのロビーにいると市川崑の映画を思い出していた。目に映るイメージと記憶が手をつなぐ。
 
 
 
 
この夏、いろんな人といろんな話をした中で、驚いたのは生まれも育ちも京都、生粋の京都人の友人が、南禅寺にも仁和寺にも行ったことないねん。と言ったこと。「え!…さすがに清水寺は?」と尋ねたら、「だいぶ小さい時にたぶん行った。遠足やったかなぁ…」と。しかし驚いてる側の私も似たようなもので、法隆寺や唐招提寺に行ったのはここ数年のこと。地元の人ほど行かない、ということに加えて、何百年、千年と守られてきたものだから、自分が生きている間になくなることはないし、急いで行くことはない。という古都ならではの感覚だろうか。取り壊されるオークラ本館に盛大に人が集まり、別れを惜しんだり写真を撮ったりしているのを見ると、This is Tokyo! 東京らしい風景だな、と思う。新しくなるために古いものを壊す、現役の都。
 
 
 
 
美しい意匠が丁寧に手入れされ、現在まで残ったのは、52年もの間、東京を訪れた人たちや東京に暮らす人たちが愛で、讃え、消費し、忘れ難い時間を積み上げてきたからだろうと考えると、現役の都人としての東京の住人としての私は、2019年、新しく出会うオークラの新しいガラスや木材や金属や射し込む光を愛で、讃え、消費し、忘れ難い時間をまた積み上げていこうではないか、という気持ちで今日はここにいた。
 
 

 

2015-08-29

Today's films

 
 
8月最後の土曜、東京は寒い・雨降り・怠いの三重苦、家でゴロゴロしたい…と、出発時刻を映画1本分ずらしてグズグズしてたけど、やっぱりこれは観なければいけないのではないか、という気がして小雨降る渋谷へ。
 
 
結果、やっぱり観なければいけない2本だった。1本めはオーソン・ウェルズ「上海から来た女」、編集で1時間分カットしたらしく物語の繋ぎが残念なほどズタズタだったけど、主演2人がようやくキスする水族館のシーンから、裁判所を経てチャイナタウン、閉園した遊園地、鏡の部屋…と移動するにつれ画面に釘付けに。視覚的な面白さに身体ごと奪われる映画らしい映画。
 
 
 
 
2本めは昨日書いたタイトル問題あり?の「肉体と悪魔」。グレタ・ガルボ目当てで。ガルボが中心にあるかと思えば、意外なほど男2人が中心にいて、ちょっと「突然炎のごとく」を連想させる。 ただしこの映画のガルボには、あの映画のジャンヌ・モローほど憐れみを感じない。
 
 
感想を書いていない映画がたくさんあるので、後ほどちゃんと書けるか不明だけど、この2本の組み合わせは火曜もあるようです。リタ・ヘイワースとグレタ・ガルボ、20年代と40年代、2人ともファムファタールになりきれない中途半端な女、という印象。
 
 

 

2015-08-28

肉体の悪魔 / 肉体と悪魔

 
 
シネマヴェーラの「映画史上の名作特集」、今回はあまり無理せずにぽつぽつ通うことにしているのだけど、明日から始まるクールに「肉体の悪魔」のタイトルがあったので、え?と思ってサイトをチェック。
 
 
ジェラール・フィリップの出ている「肉体の悪魔」であれば、40年代後半の映画だった記憶があるので、この特集にしては新しめだな…と思ったのだけど、サイトを見ると、26年に撮られたグレタ・ガルボ主演のサイレントとのこと。へーえ、肉体の悪魔って何度も映画化されてるのだな、ラディゲの原作って26年にはもうあったのだね。と調べてみたら、確かに26年には既に原作は存在したけど、映画のほうのあらすじを読んでみると何かが違う。さらにリサーチしてみると、ガルボのほうは「Flesh and the devil」で「肉体と悪魔」と呼ばれる映画なのではないか。原題がandだから、その翻訳でも理解できる。肉体の悪魔は La diable au coup でauであって、etではない。
 
 
さらにさらにリサーチしてみると、ガルボの「肉体と悪魔」はドイツの小説「消えぬ過去」の映画化とのことで、ラディゲとまるで関係ない。シネマヴェーラさんのミスなのかしらん。肉体・悪魔トラップ!重箱の隅つつくような話だけど、こういうことをちまちま調べて、ほほー!って膝を打つ…ような時間が、けっこう好きだわ。「肉体と悪魔」、無事に観に行けますように。Bon week-end!

 

2015-08-27

東京おにぎり娘

 
 
若尾文子映画祭、8本目。「東京おにぎり娘」って、タイトル…適当につけたでしょ…?って詰め寄りたくなるよ。ロビーに貼られたポスターのコピー「にぎって頂だい恋の味!私は今が喰べざかり!」というのもなんとも…と、心でクスクス笑いながら座席へ。
 
 
あらすじを引用。
 
「ちゃきちゃきの江戸っ子であるまり子(若尾文子)は、閑古鳥が鳴いていた父親(中村鴈治郎)のテーラーをおにぎり屋に改装し、繁盛させることに成功。だが、BFたちとの恋のほうはイマイチで…。若尾のナレーションで始まる導入部分もチャーミングで必見!」親同士が結婚させようと仕組んでる仲良し同級生に川口浩、おにぎり屋の常連になる怪しい社長に伊藤雄之助、ダンサー役に叶順子。監督は田中重雄、1961年、大映のカラー映画。
 
 
わたくしの若尾文子映画祭も折り返しを過ぎたのに、何かがまだ始まっていない気がする…何かしら…?と考えてみると、川口浩の出る映画を1本も観ていなかったのだった。大映好きの理由の3割は川口浩を観られるからなのに…あかんあかん、なんでもええわ、浩はんの出てはるん観なあかん、と中村鴈治郎口調で呟きつつ始まった「東京おにぎり娘」、61年当時の新橋の風景から始まり、若尾文子のナレーションで、あたしは新橋生まれ新橋育ち、新橋のこっち側で…と、家までの道案内。お盆前の時期、新橋に何度か食事に行ったので、景色の変わらないところ・変わったところがくっきり見えて楽しい。新橋以外にも、おばさんのお店のある新宿や、おにぎり屋の開店前に食器類を買いに出かけた銀座と思われる街など、ロケが多い映画らしく、当時の東京のあちこちが映る。
 
 
川口浩はというと、新宿で音楽の仕事をしている(劇場勤務だったかな)男・五郎さん。おばさん達が仕組んだ結婚話、どうしようか…と、2人で話し合い、より好きになったほうがプロポーズするのはどう?と世にも可愛らしい取り決めが行われる。「きっと五郎さんね」「いやぁ、まりちゃんだよ」など、そちらのまり子さん、川口浩といちゃいちゃして、結構なことですわね…(嫉妬)。
 
 
おにぎり屋を開店したら繁盛し、まり子を狙う怪しい社長・伊藤雄之助などが常連として訪れるのだけど、かなり面白気持ち悪い役で出てくる度に笑える。そして中村鴈治郎が仕立て屋の役のため、おじさんに仕立ててもらったやつ、と周りの男たちがスーツやジャケットを着ているのだけど、川口浩、サイズが合ってないような…。もしくは肩に合わせると身ごろがだぶつく体型なのかもしれない。川口浩にばかり注目し、身ごろのだぶつきまで気にする私…。
 
 
「最高殊勲夫人」のように、文子といえば浩、ロマコメのセオリーどおり、憎まれ口をたたき合いながらも最後は結ばれるのだと思っていた。思わぬほろ苦さに驚きながらも、ほろ苦い結末が映画に深みを与えてもいる。「東京おにぎり娘」なんてタイトルからは思いもよらない、親子の世代交代の話でもあるし、仕立て屋から既製服に移る時期の話でもあり、さまざまな過渡期を描いた映画。ああ、慕ってくれる男はたくさんいるのに、好きな1人とはうまくいかないんだね…まり子って名前の女は、どうか幸せにしてやっとくれよ…。

 

2015-08-26

不信のとき

 
 
若尾文子映画祭、7本目。「不信のとき」、有吉佐和子原作で面白くない映画ってあるのかな。これまで観たのは全部面白かった。原作の力。
 
あらすじを引用。
 
「妻と愛人、それぞれに子供を産ませてしまった男が、覆される真実に転落してゆく様を描き、人間の恐るべき虚妄と不実を暴いた衝撃作。不信に染まった現代人の、愛の生態とは?火花を散らす妻と愛人の関係を、岡田茉莉子と若尾が熱演する。」岡田茉莉子は妻役、若尾文子は愛人役、中心にいる男は田宮二郎、田宮二郎のかつての浮気相手に岸田今日子。新宿のいかがわしい風俗店にいる若い女は加賀まりこ。監督は今井正。1968年、大映のカラー映画。
 
 
なんて豪華で、似合いのキャストなのだろう。田宮二郎がポスターの序列にゴネて映画界から追放されたいわくつきの映画(wikipedia参照。田宮二郎の人生、wikipediaで知る程度ですら面白すぎて)。そんなことを知りながら観ると、調子に乗ったために転落する男の、ラストの意味深な表情、なおさら美味しく思えてくるもの。
 
 
面白いシーンが次から次へと連続して、これは原作にもあるのかな…?と考えると、是非原作を読みたくなった。若尾文子演じる愛人が、自分の部屋で具合を悪くした田宮二郎を介抱するでもなくそそくさと本宅に送り返すところとか、壮大な富士山の朝焼けに不吉な予感がして田宮二郎が怯える表情、愛人と本妻の真っ向対決…など。若尾文子と岡田茉莉子、同じく大映の「妻二人」では逆の役回りだったように思うけど、この2人が画面に映っていると華やか且つ、男には見せないけど女同士だから本音いいでしょ?というワクワクする場面の演技も、2人とも肝が据わってていいなぁ。
 
 
「不信に染まった現代人の、愛の生態とは?」とか、女って強かで怖い…という、大きな主語で語られるような物語ではなく、田宮二郎演じる男がただ、詰めが甘い、という物語のように思えた。仕事も好調、出世コースに乗り、美しい妻も、愛人も、子供も…望むすべてを難なく手に入れて、なおかつ慎重に、物静かにすべてを秘密裡のうちでコントロールできるような緻密な男ではなく、わかりやすくそそっかしい。その意味では、スマートに不倫をやり過ごせず自ら悲劇を招いたトリュフォー「柔らかい肌」の主人公と通じるところもある。観終わった後の素直な感想は、身の丈に合わないことやっちゃって、ほら、もう!ってところかな。

 

2015-08-25

cinema memo : 120th etc..

 
 
映画メモ。茅ヶ崎館。図らずも今年、小津監督のことを考える年になっているけども、ちらちらと目にした情報で、「晩春」のデジタル修復版の上映が、秋、東劇であると書いてあったような…。こういうのはさっさと調べて手帳に書いておくものよ。と検索してみると、松竹創業120周年とのこと、上映されるのは「晩春」だけではないらしい。
 
 
すでにタイムスケジュールもあり。溝口「残菊物語」も!観たいなあ。
 
 
東劇も、築地に食事に行く時など、何度も前を通ってるのだけど、まだ入ったことがないので、この機会に入ってみたいわ。東京劇場、名前の重み。
 
 
そして茅ヶ崎館繋がりでは、まさにあの旅館で撮られた映画が、9月に上映とのこと。
 
 
 
 
ああ、この間、見てきたばかりの景色が映ってる。こちらも観に行ってみる予定。

 

2015-08-24

砂糖菓子が壊れるとき

 
 
若尾文子映画祭、6本目は「砂糖菓子が壊れるとき」。今回まとめて観た中には隠れた傑作あり、当時の風俗をたっぷり吸った娯楽作あり、そして珍品もいくつか。この映画は珍品大賞・候補作。
 
 
あらすじを引用。
 
 
「マリリン・モンローをモデルに、純情な女の愛の遍歴を描いた曾野綾子の同名小説を映画化。世間から肉体派と揶揄されながらも、美しい身体を武器にスターへと駆け上がる女優・京子。幸せを夢見ながら男を求め続けるその運命を、愛おしくも悲哀に満ちたタッチで彩る。」監督は今井正(え!)、脚本は橋田壽賀子(おお!)。1967年、大映のカラー映画。
 
 
上映作品リストの載ったチラシを手にした時から、この映画を一番楽しみにしていたかもしれないのは、ひとえに私がマリリン・モンロー好きだから。若尾文子とモンローはずいぶん遠い印象だけども、そのあたりは大映マジックで、あれ?モンローに見えてきた…(目をごしごし)って、まさかの魔法をかけてくれるのかしらん。と思っていた(過去形)。
 
 
冒頭、毛皮を着た京子(若尾文子)、夜中にフォトスタジオへ。売れない女優がお金のためにヌード撮影をする…という場面から始まる。着替えはそこで…と促され、いえ、大丈夫ですの。着替えは要りませんの。と断り、はらりと毛皮を脱ぐと…いきなり裸!まさかの裸毛皮…!と、息巻くのは理由があって、去年の珍品大賞Best3にランクインするジャック・ドゥミ「都会のひと部屋」ではドミニク・サンダがまさかの裸毛皮だったのだ。ドミニク・サンダはミシェル・ピコリ演じる気持ち悪い夫から命からがら逃げてきた…という、それは裸毛皮でもしょうがないね?という理由が一応あるものの、この映画の京子、なぜ裸毛皮?着替えをラクにするため?毛皮を着るほど寒い季節、いくら毛皮で暖をとれるとはいえ、裸である必要性ゼロ。京子の裸のバックショットで静止画になり、タイトルがどどーんと重なった。若尾文子は裸にならないことで有名な人なので、あの裸は誰か、ただ裸のために呼ばれた別の女性のものなのだな。
 
 
それから始まる物語は、意外なほど伝え聞くモンローの人生そのものだった。映画会社の重役(志村喬!)に囲われるものの、男はあっけなく亡くなり、遺産相続しておくれよ。と懇願されても、いただけませんわ。と、突っぱねる。もらっちまいなよ、彼も望んでるじゃないか!と心の中で大映口調で耳打ちする私。そこで嬉々として受け取る狡猾でちゃっかりした女であれば、モンローのような生涯にはきっとならない。
 
 
重役の葬儀、かろうじて黒を着てきました、という心ばかりの喪の装い、ただし京子の場合は肩も脚も丸出しの露出度の高い、ただ黒いだけのワンピースで遺影にすがって泣き崩れる。興味を持った新聞記者に拾われ、彼の家に連れて行かれ、まぁ食べなよ。と出されるのが、焼き魚、味噌汁、ごはんの焼魚定食…。モンローのゴージャスさはどこに。でも、モンローも私生活では普通のもの食べてたのでしょうね。日本に置き換えるから珍品の香りが漂うだけで…。
 
 
そしてジョー・ディマジオ的野球選手との結婚と破綻、アーサー・ミラー的脚本家との結婚、モンローの人生どおり謎に満ちた亡くなり方をした後、ジョー・ディマジオが報道陣から彼女を守るあたりもそっくりで。
 
 
物語の筋書きはしっかりしており、つまりモンローの人生をそのままなぞるだけでそれなりに映画になる、ということで、モンローだと思って観ているから思わぬ和風な置き換えっぷりに(焼魚定食…)珍品の香りを嗅ぎ取ってしまうだけ。若尾文子がくるくる着替えるいかにも60年代の衣装、普段の若尾文子からすると、胸も寄せて上げてパッドを入れて、ヒールもきっと片方を低くしてモンローウォークを再現、体格差は致し方ないものの、見た目の点でも忠実な再現といえる。ただしどうしても若尾文子から漂う、そこはかとない賢さが彼女をモンローたらしめていないように思う。モンローについての解釈は素晴らしいのだけど、このように解釈したので、こう演じている、という賢さが前面に見えてしまっているように思う。
 
 
それでも周囲の俳優陣の面白さ…女優仲間でやがて京子の付き人になるさっっぱりした見た目の女優(名前を失念)、ほぼ準主役級で情緒不安定な女に寄り添う女のさっぱりした母性を感じさせ、アーサー・ミラー役…あの眼鏡…誰?と思っていたら最後のほうで田村高廣と気づいた。いつも田村高廣に気づくのが遅くてすみません。アーサー・ミラーの奥さん役は山岡久乃だったと思うのだけど、こんな女と一緒にしないで!私は賢い女なのよ!というツンとしたプライドの高さ、少しの出番でもしっかり漂っていた。
 
 
そう、私はこの映画を楽しんだ。冒頭の裸毛皮にポカーンとし、どうなることやら、と危惧したけど、しっかり楽しんだのだ。珍品であることには変わりはないけれど。

 

2015-08-23

雪の喪章



若尾文子映画祭、5本目は、「雪の喪章」。角川シネマ新宿、基本的にはエレベーターや場内を若尾文子一色に染めた4階で観せたいのだろうけども、300席ほどを埋めるのは容易ではなく、時々60席にも満たない5階にしてみるのだけども、そうするとあっという間に満席になり…この中間の規模の上映ホールが欲しい!と、映画館側の人々は思われたのでしょうね。「雪の喪章」は小さいほう、5階で満員の観客の一部となって観ることに。


あらすじを引用。

「金沢の金箔商・狭山家を取り巻く複雑な人間関係の中で綴られる、絶望に耐えながら強く生きる雪国の女の奇妙な運命。冷たさと 美しさの危うい均衡の上に成り立つ水芦光子の同名小説を題材に、鬼才・三隅研次の演出が冴え渡る。」監督は三隅研次、1967年、大映のカラー映画。


若尾文子の役柄は金沢の金箔商に政略結婚のように嫁ぐ女の役で、結婚してほどなく、夫と女中(中村玉緒)の関係を知り、同時に実家が没落し退路を断たれ、逃げ道のない自分の境遇を苦しいながらも受け入れざるを得なくなる。そこに現れる金箔職人・天知茂。貧しい出自ながら戦後のどさくさに紛れ成り上がり、やがて没落した金箔商に手を差し伸べるほどになる。若尾文子と、金箔商のぼんぼん(夫)と、成り上がり職人の三角関係に、愛人たる中村玉緒が絡んでいく。戦争を経て、一家の度重なる不幸を経て、やがてくっくりと浮かび上がる何十年かにわたるプラトニックな愛の物語でもある。


狭山の家では、雪が降る時に必ず不幸が起きる…と、劇中何度も繰り返されるように、哀しみの背景にはいつも雪が降り積もって。何十年にも渡って指一本触れぬまま想いだけを寄せ合った天知茂に対して、若尾文子のとった振る舞いは静かながらあまりに多くが含まれているように思えた。そして若尾文子の物語に並行して裏で流れる、中村玉緒の物語にも感じ入らざるを得ない。旧家らしい家長制度の裏側では、このような女の語られない物語が山ほどあったのだろう。そして若尾文子の夫役…おそらく福田豊土という俳優なのだろうけど、あほぼん、という呼び方がぴったり似合う、やってることめちゃくちゃながら、育ちの良さゆえ悪意のないことだけは誰にも伝わる、という役柄にぴったりな風貌だった。初めて観た俳優だったし、他にどのような映画に出ているのかは知らないけど、「雪の喪章」において彼の表情や風貌は旧家のぼんぼんにぴったりだった、ということを記録しておく。ま、それ以上に若尾文子の、天知茂の、そして中村玉緒の、さらに雪の、そんな映画だったのだけれど。

2015-08-22

Today's films

 
 
軽くメモ。 東京の映画好きにとって悩ましいことは、違う場所で観たい映画がいくつも重なる日が度々あることで、気分・体調・映画以外の予定・移動時間などもろもろ考えてみて、えいっ!と選んだものを最上の選択と信じる勇気が求められる。今日はロベール・ブレッソン祭か、シネマヴェーラで悩みに悩み、ヴェーラを選択。ジャン・ヴィゴ「アタラント号」を映画館で観たことがなかったので。
 
 
結果、素晴らしかった。新橋文化劇場も亡き今、映画2本立てのベスト番組賞はどうしてもシネマヴェーラばかり。年明け、雨の夜に観た「雨に唄えば」からルビッチ「思ひ出」の2本立て、ルビッチ特集「結婚哲学」「君とひととき」、同じ作品のセルフリメイク、サイレントとトーキー見比べ2本立て。そして今日の「アタラント号」を観た後の、フランク・キャプラ「スミス都へ行く」の2本立ても素晴らしかったなぁぁ。
 
 
 
 
まったくタイプの異なる映画の2本立てながら、30年代のフランスの傑作、アメリカの傑作、お国柄の違いも滲み出て。この2本立ては火曜も終日上映されるとのこと。
 

 

2015-08-21

夜の素顔

 
 
若尾文子映画祭4本目、「夜の素顔」。この泥棒猫ッ!って吹き出しつけたくなるこの写真、まさにそんな場面なのです。
 
あらすじを引用。
 
 
「美貌と才覚でのし上がってきた野心あふれる日舞の家元・朱美(京マチ子)。日舞踊研究所を拡大させようと奔走するが、夫と内弟子の比佐子(若尾文子)の関係に不穏なものを感じるようになる。女同士の濃密で緊張感あふれる関係を描いた人間ドラマ。京マチ子と若尾が色とりどりの衣装で艶やかに踊る舞台シーンも見どころ。」監督は吉村公三郎、脚本はまたもや新藤兼人、働き者!1958年大映映画。オープニングで流れる唄?小唄?都々逸?は「夜の素顔」というオリジナルで、監督が作詞している。あの歌詞はこの映画をさりげなく要約していたように今となっては思うので、機会があればまた、しっかり聴いてみたい。
 
 
パンフレットからカタカタとあらすじをタイプしながら……ん?「色とりどりのの衣装で艶やかに踊る舞台シーン」、まるで覚えてない…!確かにそこも見どころだったのかもしれないけど、この映画は他に語らねばならぬところが多すぎる…!
 
 
可愛い顔して強かな若尾文子もさすがのしっかりした演技で素晴らしいのだけど、これは主演・京マチ子の映画。京マチ子の役柄は大阪生まれ、親が子育て放棄したがゆえに釜ヶ崎(ドヤ街)で体を売って生計を立て、日舞の世界においても違う流派の家元やパトロンを女の武器を駆使して丸めこみのし上がり…という、いろんな意味でエネルギー過剰な女。成功した京マチ子の家に、身元を明かさず押しかけ遠回しに金をせびる女の正体は大阪で別れたはずの母親で、演じるのは浪花千栄子!!!(興奮)!! 京マチ子と浪花千栄子が親子って…そんな家、どれだけお金積まれても絶対住みたくない…。2人の対決シーン、京マチ子が風呂上がり、体もろくに拭かない水の滴る、バスタオルだけかろうじて巻いた女状態で、そんな髪も体も水びたしの京マチ子と浪花千栄子が互いの出自を暴露しながら罵り合い、浪花千栄子の形勢は徐々に不利になり、要求金額も2000円…いや1000円…500円でええわ…帰りの電車賃だけ…どんどん少額になっていくあの場面。京マチ子って「浮草」といい、対決!という場面で片方になってることが多いけど、この映画の対決場面、もう片方にも相手に不足がなさすぎて、座って観てるだけで酸欠寸前に…。


浪花千栄子以外にも、京マチ子に地位を奪われる日舞のお師匠さん、ドサ回り先の地方の旅館で出会う祇園の芸妓が流しの都々逸唄い(という呼称でいいのだろうか)に身をやつした老女、どの女も京マチ子の行く末を暗示するような暗さとしぶとさがあった。女の人生は華やかな季節を過ぎてからも長い。


京マチ子が再起のため企画する、前衛音楽のオーケストラ生演奏つきでバレエ、日本舞踊など洋の東西を問わない新奇かつ珍妙な踊りを披露する公演「日本の夜明け」の準備と本番に向け物語は勢いよく流れ、1回のみ公演、生放送でテレビ放映もされる注目ぶりのその公演の舞台となるのが、新宿コマ劇場!え?この時代もうコマ劇あったの?と調べてみればコマ劇は56年開館、映画は58年公開だから、出来立てピカピカのコマ劇でロケしたらしい。「日本の夜明け」で京マチ子はクレオパトラと天照大神を足して2で割らないような衣装・髪型・メイクで、若尾文子は日本武尊ふうの衣装・髪型・メイク。あれ…この髪型…最近何かで観た…と思ったら「みすず学苑」のCMだった。「夜の素顔」は「みすず学苑」コスプレの若尾文子を目撃できる貴重な映画だったこと、ここにメモしておきたい。メモしておかなくても、きっと忘れられないけど。

2015-08-20

清作の妻

鍬を持つ…!
釘を見つけた…!
 
 
若尾文子映画祭3本目、「清作の妻」、物騒な写真ばかり。その女の近くに尖ったもの置いちゃダメ!
 
 
あらすじを引用。
 
 
「戦争を背景に、愛する夫だけに生きがいを見出し、それ故に常軌を逸した行動に走る妻を描いた秀作。孤独な女性が、ようやく真の愛を見つけて結婚した矢先、夫に招集命令が下され…。この世への恨み辛みを湛えた若尾文子の表情は、抑制された撮影と照明で一際の異彩を放つ。」監督は増村保造、脚本は新藤兼人、1965年の大映映画。
 
 
夫役に田村高廣、と目にして、あら大丈夫かしら。と危惧したのは、私にとって何故か印象に残らない俳優の筆頭だから。木下恵介監督の映画にたくさん出ている印象があるけど、たくさん観たはずなのに木下作品の印象自体、まるっと映画記憶から抜け落ちているのは、もしや田村高廣が出ていたからなのでは…と思うぐらい(まさかの戦犯扱い)、心に何も引っかからない人なのだ。
 
 
小さな農村の青年会長のような役で、はい!きました!田村高廣といえば清潔で好青年!何しろ記憶に残ってないので、過去にどの映画で田村高廣がそんな役を演じたかすら覚えてないのに、そんな男ばかり演じてる印象だけはある。田村高廣、戦地に赴いていた時もコツコツお金を貯め戻って来た頃にはひと財産になっており、それで何をするかというと重そうな小さな鐘を手に入れたらしい。鐘…?何のために…?というと、村の小高い丘の木に鐘を吊るし、鶏より早起きしてガンガン鐘を鳴らす。驚いた村人たちは丘の上に駆けあがって行き大集合。田村高廣が言うことには、これからは村全体で早起きして朝から農作業をするのだ。規律正しく仕事をし安定した収穫を得るのだ。と仕切る仕切る。イヤだよこんな正しい男…と、椅子に斜めに座り直し画面を見つめる私。
 
 
しかし「清作の妻」は増村保造ドロドロ系の系譜の映画、田村高廣がエンドマークまで無傷でいられるはずもなく、あろうことか村八分にされている若尾文子の色香に惑わされ、熱情の餌食に…。素晴らしい!こんな田村高廣を観たかった!最後には「正しく生きていただけでは気づかなかったことに気づいた」的な台詞も引き出して田村高廣、ナイスキャスティングじゃないの!若尾文子、good job!と仕事っぷりを讃えたい。
 
 
そして、この映画を観る何週間か前に、午前十時の映画祭で観たばかりの「ライアンの娘」を途中ちらちら思い出していた。村の中での主人公女性の置かれた立場や、恋愛の道行など筋書きは違うけど、背景に戦争があること、古い村の因習に激しい女が風穴を開けていくところ、女と出会うことによって男も変化していくところなど、シンクロするところが多いな、と思いながら観た。
 
 
私にとっては「ライアンの娘」と紐付いたことで「清作の妻」の印象も増し、ようやく田村高廣のことを覚えられた記念として我が映画の記憶の蔵にめでたく収蔵される映画になった。

 

2015-08-19

 
 
若尾文子映画祭で観たものをコツコツ記録。「やっちゃ場の女」を観た後、しばしブランクがあって…(何をして忙しかったのかもはや記憶が薄い。原稿書くためのホン・サンス祭を開催していたような気もする)、2本目は「爛」。増村保造監督、新藤兼人脚本の鉄板コンビ、1962年の大映映画。
 
 
あらすじを引用。「売れっ子のホステス増子は、愛人が妻帯者と知りながらも半同棲の生活を続けていた。ようやく妻の座におさまり、幸せな家庭を手に入れたと思った矢先、姪の栄子が転がり込んできて…。妻の座を得ようとする女の闘いを描く衝撃の恋愛ドラマ。」
 
 
主役は若尾文子、男は田宮二郎、姪の栄子は水谷良重。若尾文子が自分の部屋でスリップ一枚でソファに寝転がる場面から始まり、やがて麻雀などしながら田宮二郎が来るのを待つ。ホステス仕事、ホステス仲間とのおしゃべり、麻雀、男との逢瀬。の繰り返しで日々が廻っている女。そこに田舎から姪が転がり込み話が展開していくのだけど、この転がり込んでくる女が「姪」という設定もいいし、水谷良重というキャスティングもいい。やがて愛人(若尾文子)に夫を奪われる妻といい、田宮二郎に絡む女が皆、三様にキャラクターが違い、田宮二郎、好みの幅が広いな!…というより近づいてくれば誰でもいいのか…?話を戻して、絡んでくる女が「姪」という設定が効いていて、田舎の退屈な狭い世界に耐えかねて都会に活路を求める、というのも若尾文子の辿った道をなぞるようでそこはかとなく血縁を感じさせ、やがて激昂して姪を家から追い出した若尾文子が、身ひとつで追い出された姪を追いかけて、コートや靴を放り投げるのも、身内ゆえの切れない情を感じさせて面白い。
 
 
田宮二郎は自動車のセールスマンだったと思うのだけど、サラリーマンぽさが希薄で羽振り良く、1962年当時、それは花形の職業だったのだろうな、と思う。風呂上がり腰にタオルを巻いただけの上半身裸でウロウロしながらビールを飲む田宮二郎、それを「男の身体だわ…」と、じっとり見つめる水谷良重…のショットなど、大映俳優陣の中でも、こんな映り方する俳優、やっぱり田宮二郎をキャスティングするしかない。田宮二郎がいたからこそ、この世に生まれた映画ってたくさんあるのだろうなぁ。
 
 
途中、3人が車で旅行に行き、それは略奪に成功した若尾文子がねだった新婚旅行のような道行なのだけど、田舎の田んぼの真ん中にある店で食事をとり、若尾文子が田園風景を見ながら「昔を思い出すわぁ〜」と余裕のある伸びやかな言葉を放つ間に、皿いっぱいの鰻が卓に運ばれ、ああ、それで3人前なのね、白ごはんと分けて運ばれてきたのね、みんなでつつくのかしら。と、のんびり眺めていると、それはただの1人前で、もうひと皿、そしてもうひと皿とやがて卓が鰻に溢れ、一人あたり丸々2尾分は摂取したのではないか。と、お勘定など気にするのは21世紀も10年と過ぎた鰻についてハラハラする話題しか耳にしない切ない現代の私であって、田宮二郎は鰻がいくら高騰しようと、その分稼げばいいんだろ?と豪気に言い放ちそうな高度成長期の男で、女2人も含め、山盛り摂取した鰻の精力など一晩で使い果たしそうな人々しか画面に映っていなかった。
 
 
やがて水谷良重が一線を超えた途端、家のソファでスリップ一枚で寝そべる場面。この映画には、愛人になった途端スリップ一枚でソファに寝そべる女ばかり出てくる!そして最後、留袖を雑な手つきで脱ぎ捨て、スリップ1枚になった(!)若尾文子が、玄関の草履を踏みつけ電気を消す場面の格好良さよ。
 
 
それにしても、この映画に登場する結婚式の場面、映画史上最も暗い結婚式だったのではないか。初めて観た、あんなお葬式みたいな結婚式。公開当時のポスターに書かれたコピーを読むのが、映画祭中の密かな楽しみだった。「妻の座を肉体で奪い合う!ただれるような女の斗い!」その言葉自体は消えたわけじゃないけど、使われなくなった日本語の言い回しってたくさんあるのだろうな。

2015-08-18

手ぬぐい

 
 
若尾文子映画祭、余韻に浸り中…。主要作品が1週間ほどまだ上映されてるの、観に行きたいのだけど、平日の午前午後は無理。冬にあるというアンコール上映を楽しみに。
 
 
パンフレットと、珍しく手ぬぐいがグッズにあったので購入。この夏、友人が手土産に手ぬぐい(ペンギン柄!)をプレゼントしてくれて、改めて手ぬぐいの実用性にうっとりしていたところ。大判ですぐ乾き何度手を拭いてもベタっとしないし、日本に昔からあるものは、日本の気候に合ってるなぁ。
 
 
そしてこの柄、小津監督「浮草」で若尾文子さんが着ている浴衣の柄の再現!ちょっとだけ色を変えてあるようだけど(グレーをイエローに?)、小津グッズでもあって嬉しい。
 
 
 
 
 
映画を観るたびにグッズを買っていてはキリがないのでパンフレットなどもよほど気に入った映画か、希少な上映の時しか買わないけど、手ぬぐいは実用アイテムだから、柄を気に入れば、見つければ検討してみようと思った次第。

 

2015-08-17

オフショット

 
 
若尾文子映画祭、角川シネマ新宿で展示されていた撮影時のオフショット集。「最高殊勲夫人」のラストシーン、あのキメ顔?が選ばれるまで、何度もテイクを重ねたことがわかる…あのラストシーン好きの私には貴重すぎるオフショット。
 
 
6月初めからずっと続いていた私にしてはずいぶん怒涛の社交月間、2ヶ月少し。が、さきほど終了。今の気分としては、今時フィルムカメラで撮って、現像しないまま時系列も適当に、何巻ものフィルムを箱に放り込んだみたい…。という、こんな表現もそのうち、フィルム?は?って前時代のものになるのでしょうか。東京はぐっと気温が下がり、徐々に秋の気配。宿題あわてて片付けるみたいに、8月末まで黙々と過ごそう。

 

2015-08-16

cinema memo : Right now, wrong then

 
 
ところで最近、ホン・サンス監督はどうしているのかしら…去年は一気に3本も、日本で新作が公開された充実っぷりだったけれど。と、漠然と考えていたら、スイス・ロカルノ映画祭でグランプリ受賞のニュース。
 
 
 

日本語版のニュースはこちら

 
映画のあらすじをチェックすると、
 
映画監督が地方都市にやってきて、そこで女性と知り合うけど、監督が既婚者だとわかり…って、いつもながらのホン・サンスの物語だなぁ。
 
 
最近何本も観直してみて改めて考えたことには、登場人物のキャラクター…映画監督(既婚者多し)、映画学科の学生、現地で知り合う女性…舞台は地方都市で、映画監督が脚本を書くため、もしくは映画祭に招かれるなど撮影以外の仕事で滞在している…(が仕事の形跡はなく、恋愛と飲酒の場面ばかり)という設定がほぼ固定されているのは、一作ごとにホン・サンスが静かに挑戦している試みが、いかに作品に作用するかを確かめるためなのかな、と思う。素材を固定して、味付けや火の入れ方を微妙に変え、変えたことが出来上がりにどう影響するのかを淡々と試しているような。
 
 
ともあれ、新作の早々の日本上映を希望いたします。

 

2015-08-15

野火

 
 
去年秋の写真。東京フィルメックス、オープニングは塚本晋也監督「野火」。市川崑監督版のほうは観ておらず、大岡昇平の原作のあらすじは一般常識程度に知っているので、塚本監督の個性も含め、刺激が強そうで見送ろうかと思ったので、映画好きな人が集まってわいわい、の雰囲気のある映画祭のオープニングが好きなので、セレモニー後にセットで上映されるこの映画についても、勢いでチケットをとった。
 
 
上映前の挨拶で監督は「暴力描写はポイントづかいだよ」と言っていたけど、そんなことはなく、監督自身がこだわって何時間も調整した緻密な音響の効果か、銃弾が何度も後頭部めがけて襲ってくる音がしたから、さっと頭を傾けて避け、耳の真横をかすめてスクリーンに散って、短い映画ながらずっと身体に変に力が入っていたので、疲労感でぐったり。
 
 
映画化の構想は20年来あたためていたもので、戦争体験者に取材を重ねるうち、体験者が徐々に少なくなっていき、同時に最近の不穏な世情に焦りを感じ、資金繰りもままならないうち、見切り発車で自主映画のように作られたとのこと。軍服ひとつとっても、古着で一組だけ購入したものを参考に、安い生地を使ってボランティアの方々がたくさん縫って準備したとか。
 
 
この映画がほぼデビュー作という若手俳優の森優作さんが素晴らしく、上映後に登場した純朴そうな本人とのギャップに驚愕し、誰でも身体の中に極限状態でのみ発動する種類の狂気を抱えている…という「野火」の物語と重なって強く記憶に残っている。こんな映画にこそ、順当に対価が払われますように。
 

2015-08-14

講義録

 
今日観た景色。写真上から、滋賀県にあるミホミュージアムの空。え?もう紅葉、色づき始めてるの?夏よ行かないで。松の剪定、あまりにもブロッコリー似。
 
写真とはまるで関係なく、去年聴いたホン・サンス監督の講義、素晴らしい記録があるのでリンクをメモ。入力しやすいキーボードのある環境に戻ったら、講義について思い出したことをまた書くかも。
 

 

 

 

2015-08-13

memorandom / 東京・消失・映画館 第五回

 
 
消失した映画館と、そこで観た映画の記憶。
memorandom連載、第五回 更新されました。
 
この時観た4本を改めて観直してみたら、「次の朝は他人」の気づかなかった美しさに陶然とし、「ハハハ」の軽さを成立させるための複雑な構造に呆然とした。何度観ても興味の尽きない人。
 
 
 
 
 
炎天下、再訪してみたシネマート跡地。そこに映画館があったことなど素知らぬ顔の新しい何かが建つのだろうか。

 

2015-08-12

完走

 
 
若尾文子映画祭、観る予定だったものを観終わり、完走。映画祭は東京では今週金曜まで。
 
 
 
4階は公開当時のポスター、スチルの豪華展示で退屈しない。早めにチケットを確保しに来て、そのままロビーに留まって見入る人々で溢れていた。
 
 
私の最後の1本は増村保造監督「美貌に罪あり」だったのだけど、杉村春子の存在感よ…。最後の最後に杉村春子が全てを上書きしたかもしれない。若尾文子映画祭なのに…。

 

2015-08-11

スタンプラリー

 
 
若尾文子映画祭、60本もあって、永遠に続くかのように思われたけど、もう最終週。スタンプラリーの台紙、財布に放り込んでいたのでクシャクシャ気味。最後に行った時に忘れずに出して帰らねば。前売り12枚も買っていた私は、あれこれの隙間を縫って地道に観ており、無事に最後まで観られたら14本の予定。未見の映画を観るというテーマで選んでいるけど、映画祭以前に観ていたものをあわせても、32〜3本ぐらい、ようやく過半数。ほとんど10年ほどの期間に撮られており、今回の60本が若尾文子のフィルモグラフィーの半分も網羅していないと思うと…若尾さん、なんて働き者なの…!共演者の皆さんも役柄を変えしょっちゅう登場することを思うと、全盛期の大映、スタッフも俳優も働かせすぎ…!
 
 
1週間ほどメジャーめな作品のアンコール上映が決まったとのこと。そして冬にまたアンコール上映があると何かで見かけたけど、そこでまた未見のものをクリアしていけるだろうか。
 

2015-08-10

Ozu trip / 北鎌倉から鎌倉

 
 
茅ヶ崎館を後にして、北鎌倉へ移動。円覚寺、小津監督のお墓参りへ。境内の脇の墓地の、高台にある。お墓には「無」と一言掘ってあり、お酒がたくさん供えてあった。一般的な円覚寺の観光ルートから外れて、わざわざ墓地にやってくる人々はだいたい監督のお墓目当てなのか、ガイドブック持った外国人が次々と訪れていた。何気なく、木下恵介監督のお墓も近くにある。この日は月曜だったので、日本人観光客は少なく、外国人多め。
 
 
とにかく暑い日。江ノ電に乗り換えて、長谷へ。道すがら倒れそうになりながら、到着。大仏!奈良の大仏はこれより大きいのか?と聞かれたので、大きいし、金色だし、家の中にいる。と伝えた。
 
 
 
 
中にも入ってみることにしたのだけど、中に入るの、1人20円!この物価上昇の時代に!5人だったので1人が代表して「奢るわ!」と奢ってくれました。大仏の中は滞在時間に比例してじんわり熱くなり、銅製のフライパンの上でじっくり焼かれる肉や野菜って、こんな体感なのかな…と妄想。
 
 
 
 
むしろ背中に風情が…。そして、小津映画でも、大仏が登場していた気がする…と思い出してみれば、北鎌倉が舞台だった「麦秋」だった。人生で最初に観た小津映画が「麦秋」で、言葉にできない衝撃を受けたので、あの映画のことはよく記憶している。大仏の足元に座る子供たち。
 
 
 
 
原節子演じる紀子さんと、そのお祖父さん(耳が遠め)。
 
 
 
その後、一番暑い時間帯に、鶴岡八幡宮まで行き、あの階段を登って下り、木陰がほとんどなく、視界は果てしなく白かった…。中途半端な時間になったし、何を食べよう…と迷いつつ、好きな珈琲店・イワタに入る。いつも混んでる印象なのだけど、珍しく空いてた。
 
 
 
もちろんホットケーキ!中途半端な時間の食事として最適だったのではなかろうか!鎌倉から東京までグリーンに乗って(グリーン券の購入システムの電子化っぷりに、行きも帰りも感嘆)、真夏の小津ツアー、終了。

 

2015-08-09

Ozu trip / 茅ヶ崎館 宿の裏の海

 
 
茅ヶ崎館。朝食の前にみんなで海に行ってみることにして、宿の方に裏手に案内していただく。階段を降りて、3分も歩けば海。
 
 
 
 
この時期の湘南の朝の海は、早朝サーフィンをする人々でいっぱい…のイメージがあったのだけど、犬を散歩させている人が少しいるだけで、人気もなく静か。
 
 
波に乗るほどの波でもない、ということなのだろうか。ハーシーズのキスチョコのような小さな島めいたものが見えるな、と思ったら、それがサザンオールスターズの歌でおなじみの烏帽子岩だという事実は、後で知った。この海岸は「サザンビーチちがさき」と呼ばれているらしい。茅ヶ崎駅、発着の音楽は「希望の轍」だった。
 
 
 
 
しかし私にとっては小津映画の海。監督が逗留していた馴染みの場所だから、ということもあってか、小津映画に何度かこの海岸と海が登場している。よく覚えているのは「麦秋」。結婚を決めた原節子が、兄嫁の三宅邦子と一緒に眺めに来る海。映画の頃は静かだったのに、今はこんなに騒がしくなって…という気分になるのかな?と想像していたけど、今も静かな海で良かった。前日、到着後は一歩も外に出なかったけど、日が沈む景色など見に来れば良かったのかな…。次の機会に、そうしてみよう。
 
 
 
住宅地を抜けて、宿に上がっていく階段。
 
 
 
庭を抜ける。細い小道が裏口まで続いていて、足を洗うための水道の蛇口があり、足を拭くためのタオルなども置かれていた。さすが…。
 
 
 
夏は何も咲いていないけど、季節ごとにいろいろな花が咲くのだとか。秋から逗留を始めた監督は春までここにいて、庭のツツジとエニシダの咲く頃に茅ヶ崎館を離れる、毎年その繰り返しだったそう。
 
 
これぞ日本の旅館の朝食!という、白飯に合うものばかりの素晴らしい朝食をいただき、名残惜しくチェックアウト。去り際に宿の方に教えていただいたことには、夏場は混むけれど、それ以外の季節は週末を外せばさほど混まないとのこと。季節を変えてまた来たいし、今度は二番の部屋にも泊まってみたい。真冬に数日、ここに籠るなんていうのも、とても素敵なのではないかしら。