CINEMA STUDIO28

2015-01-31

頤和園

 
 
ロウ・イエ監督の新作「二重生活」を観る前に、過去作を観ておこう。の続き、2007年の映画「天安門、恋人たち」(原題:頤和園)をDVDで。頤和園は北京市内の北のほうにある名所旧跡で、西太后が夏の別荘として使っていた場所。英語ではsummer palaceと呼んだはず。大きな湖があり、そこから見える景色が水墨画のようで、中国にいるなあ!って実感できる、私の大好きな場所。
 
 
地方都市に住む女子高校生が北京の大学に合格し、寮に住み大学生活を満喫する。しかし天安門事件が起き、主人公は退学して地元に戻った後、中国国内を転々とし、仲間たちはベルリンへ移住し…という物語の中心に、主人公と大学で出会った男との激しい恋愛がある。
 
 
前半の北京の寮生活の様子が懐かし面白い。北清大学、が舞台なのだけど、確か北京にはそんな名前の大学はないのでは?おそらく北京大学+清華大学を足して似で割る架空の名前なのでは。どちらも中国の最高学府なのだけど、映画ではほとんど勉強してる様子は描かれずひたすら恋愛と人間関係のもつれが描かれる。頤和園は大学が密集するエリアからそれほど離れておらず、映画では湖でボートに乗ってデートする2人の場面がある。この場面、美しかったな。暗くなって湖の上に月が昇って。
 
 
天安門事件を描いたことに加えて、激しい性描写があることで監督はこの映画によって中国での映画製作5年間禁止処分をくらったとのこと。確かに、中国映画で、こんなに激しくても許されるんだ…と唖然としたのだけど、許されなかったのね。主人公が情緒不安定な女で、心の隙間を埋めるために身体を使い、その度に相手や住む場所が変わったりして、1人の女性の感傷的な半生記(というほど長くもないけど)でもあり、何分に一度性描写を入れる規定があるロマンポルノのようでもあった…。
 
 
決して政治的なことを中心に描きたかったわけではなく、その同時代に北京にいた学生たちの生活とその後の人生を描きたかったのだろうな。みんな天安門事件には参加してるけど、周りに合わせて見に行った程度で、政治的主張の強い人々ではない。感情的な物語展開に少し辟易としながらも、離れ離れになった恋人たちが、長い時間と、長い移動距離を経て、ドラマティックでも何でもない北京から遠く離れた場所で再会するラストのほろ苦さこそロマンティック。
 
 
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カメラ問題は初夏あたりまで考えるつもりが、あっさり解決。デジタル一眼を使っていた頃の写真を見返していると、その頃の写真に一番満足してるけど、持ち歩かなくなった理由もわかる。持ち歩く持ち物が少なめな私の鞄にはかさばりすぎる。小さくて軽ければ持ち歩くかな?とミラーレスを検討し始め、目星もつけたのだけど、「多様なレンズが魅力」の一台ながら、どうしても撮影場面にあわせてマメにレンズ交換している自分が想像できず。うーん…と思ってるところ、ある日ふと知ったPENTAX MX-1、マクロから4倍ズームまでボタンひとつで切り替えられて、カメラにうるさい人たちにも写りの良さも評判が良いとのこと。上下に今時、真鍮が使われているカメラの基本のようなデザインもおじさんくさくて良い。ネックは、真鍮ゆえに重いらしいこと。知ったその日にビックカメラに寄って実物を触ってみて、確かに重いのは気になりつつ…。
 
 
PENTAXブランド最後のコンデジとの噂もあり、既に生産終了しているらしく?在庫が終われば手に入りにくくなりそうなので、早く決めるべきよね…と迷いつつ、次の日の夜、Amazonを見ていると偶然タイムセールをやっていたので勢いで購入。ミラーレスは何ヶ月も迷ったのに、知って数日であっという間に手元に届いたのは別のカメラだなんて、縁ってこういうことよね。と納得せずにはいられない…。私が何か選ぶ時って、あれこれ考えはするけど直感を一番信用してるもんなあ。
 
 
かなり手が小さく、カメラのサイズや重さが気になる私でも、このカメラは重さが逆に構えやすさ、手ブレしなさに繋がっていて使っていて快適。写りもとても好み。写りっていいか悪いかは最低限の問題としてあるとして、好みの問題のほうが遥かに大きい。どんなに人気のカメラでも、思ってたんと違う!って写真だと、相性が悪かったねとしか言いようがない。初期のデジタル一眼時代の名残で、液晶ではなくファインダーを覗いて撮るという行為自体をもう一度やってみたい欲求はまだ残ってるので、このカメラを使い倒した次は、フルサイズのデジタル一眼を選んで手に入れようと思う。

2015-01-30

La vie d'Adèle – Chapitres 1et2







ギンレイホールで。「アデル、ブルーは熱い色」(原題  La vie d'Adèle – Chapitres 1 et 2)、2013年秋の東京国際映画祭クロージング作品だったはずで、公開に先駆けて観た。


アブデラティフ・ケシシュ 監督はその際も挨拶され、翌々日ぐらい?にアンスティテュ・フランセで過去作「クスクス粒の秘密」の上映後のティーチインにも登壇された。哲学者のような佇まい。ティーチインの前には、北鎌倉へ小津監督の墓参りに行かれたとのこと。


フランスの高校生・アデル(アデル・エグザルホプロス )が、青い髪の女・エマ(レア・セドゥ )に出会い激しい恋が始まって・・・という物語。女同士の激しい性描写があることで、日本ではR-18指定。観終わった後、ぼうっとして、公開されたらまた観に行こうと思っていたのだけど、公開時は逃した。そして、ギンレイホール、R指定のある映画があまりかからない印象だったので、この映画が映されることに驚いた。年配の常連さんも多い映画館なのに、大丈夫かしら・・と思ってたけど杞憂だったようで。そういうシーンが終わるとおもむろにトイレに立つおじさんなどいて、年を取るってすごい!って妙に感心した。


女優2人とも素晴らしかったのだけど(カンヌでは初めて、作品に加えて女優2人にもパルム・ドールが贈られた)、知名度の高いレア・セドゥのチャレンジも天晴れながら、観終わって時間が経つごとに、アデル・エグザルホプロスの映画だったね。という実感が増してきて、2度目の今回は、アデルばかり目で追った。


邦題もそうだけど、原題 La vie d'Adèle は「アデルの人生」、まさにアデルが中心にいる話。人生といっても、10代の終わりから数年間の短い間だけども。文学が好きだというアデルが、リセの文学の授業は真剣に聞いているのがわかるし、学生たちが暗唱し読み上げるフランス文学の一節は、そのままアデルの心象や今後の展開を予言するようなものが選ばれている。


だらしない寝相で寝るアデル、父親の作ったボロネーゼをおかわりして食べてナイフについた肉まで舐めるアデル、「いつも何か食べてるの、お腹が空いていない時でさえも」と、確かにアデルはベッドで泣きながら、ベッドの下からお菓子ボックスを出して泣きながらチョコパイを食べていた。恋においては声をかけられた同級生の男としばしつきあってみるも、何か違うとすぐに別れてしまう。何が違ったのかは、街で見つけた青い髪のエマに惹かれることでアデルも観客も知ることとなる。


アデルは欲望を満たすことに貪欲で、見切り発車でもあれこれ試し、違うと思えば手放す。もちろん手放すことに傷はつきもので、そのたびに顔じゅうで泣きながら。満たされた気持ちでいても、おいしそうなものが脇から登場すればそれにも躊躇なく手を伸ばす。頭で考えることを身に着ける一歩手前の、原始的な姿を見せつけられているようで、それでいて野生動物がひどく優雅なのにも似て、愚かには見えない。


その人の真ん中に、きちんと、その人がいる。アデルは恋に出会う前からそういう女の子で、恋によってますます強化された。結末はアデルとエマ、それぞれ愛に求めるものがズレていってしまったけれど、アーティストとして生きるエマにとっては、アデルの存在は脅威だったのかもしれず、距離を置くしか大切に思う方法がなかったのかもしれない。アデルは迷いなく地に足のついた道を選んでるけど、もしかするとアーティストに向くのはエマよりアデルのような人で、エマはそれをわかってたのではないか。


ケシシュはアデル・エグザルホプロスに出会って、主人公の名前が原作ではクレモンティーヌだったのを、あえて女優と同じ「アデル」にしたらしい。どれほどの撮影期間だったのか、どのような順番で撮ったのか知らないけれど、冒頭のアデルに比べて、最後のアデルは、内側で大変動が起きてしまった人の、多様な表情を身に着けていた。アデル・エグザルホプロスは確かにアデルを生きたのだな。


レンタルされているDVDは、長いラブシーンがいくつかカットされているって本当かしら。「カットしても、物語の大筋には影響ない」なんて誰がどんな権利で判断するのだろう。この映画のラブシーンは、長くて激しいことにきちんと意味があるのだ。ラブシーン抜きの「アデル、ブルーは熱い色」は、もはや「アデル、ブルーは熱い色」に似た別の映画に過ぎない。


3時間近くの長さを感じさせない映画だけど、観終わると、とてもお腹が空く。アデルがずっと何か食べてるせいもあるのだけど。丸ごと生きてる人を観てるだけでも、お腹って空くんだな。

2015-01-29

Fading Gigolo


 
 
 
 
久しぶりのギンレイホール。外観、内装、the名画座!という雰囲気で好き。年間パスポートは何年も更新し続けており、ギンレイみたいな年間パスの仕組み、他にも増えないかなーと願ってるけど、増えない。
 
 
ジョン・タトゥーロ監督「ジゴロ・イン・ニューヨーク」(原題:Fading Gigolo)を観る。
ウディ・アレンが俳優として出演。ウディ・アレンがかかりつけの医者(レズビアンで彼女がいる)から、男を紹介してほしい、お金なら払うから。と言われ、彼ならいいのでは?と花屋でバイトする男(ジョン・タトゥーロが主演も兼ねる)を紹介。あたかもそれが最初から商売だったかのように、2人はポン引き&ジゴロ(というか男娼)としてコンビを組み、意外なほど利益を得ていくのだが・・。という物語。
 
 
女性のキャスティングも豪華で、最初に依頼するリッチな医者にシャロン・ストーン、敬虔なユダヤ教の未亡人にヴァネッサ・パラディ。
 
 
後でインタビューやレビューを読んでみると、ジョン・タトゥーロ演じるジゴロは、男前ではないが・・など書かれてるのが多かったけど、美醜の問題は主観として、彼が相手にするのはお金や仕事を持ってる地位の高い遊び慣れた女性ばかりで、依頼されて家に着き、交わす会話が知的でウィットに富んでおり、美しいだけじゃつまんないわよねぇ・・と言いそうな、大人の女性の相手としてぴったりではなかろうか。距離を詰める時も、相手の出方を観察しながら謙虚に次の手を打ってる感じ。商売繁盛は納得。ポン引きとしてのウディ・アレンの取り分は、多すぎでは?と思ったけど。
 
 
それからヴァネッサ・パラディ!
何年も動くヴァネッサ・パラディを観ていなかったのだけど、小悪魔然としたところを封印し、既婚女性は、夫の前以外では肌も露出せず、素の髪も見せてはいけないからウィッグを着用するというユダヤ教の厳しい戒律に従った生活を送る物静かな女性を演じていて、あれ?こんな魅力的な人なのだっけ?と驚いた。「枯れてなお魅力が増すヴァネッサ・パラディ」なんて想像したこともなかったから意外な発見。ショートボブのウィッグが似合い、フレンチアクセントの残る舌足らずな英語も良かった。
 
 
この映画について、私の興味は、ウディ・アレン映画で観るウディ・アレンはいつもウディ・アレンで(当たり前なのだけど)、純粋に俳優として他の監督の映画に出演するのを観るのが初めてだったので、どう違うのか?ということ。ウディ・アレン映画の俳優って、本人が出ていないときでも、ウディ・アレンが憑依してる!って言いたくなる人・・・例えば「タロットカード殺人事件」のスカーレット・ヨハンソンなんて、そのまんまウディ・アレンで、あの映画はウディ・アレンも出演してるから2人の掛け合いは、鏡を前にした一人漫才みたいだった。しかしこの映画のウディ・アレンは、初めて観るウディ・アレンで、どちらが素なのかわからなくなる。どちらも素ではないのかもしれないけど。ウディ・アレン映画のウディ・アレンが、とってもウディ・アレンなのは、脚本、演出、編集・・・等々の総合結果なのだな。
 
 
ニューヨークを舞台に、ユダヤ教が絡み、賢くて強い女性と、おろおろする男性が出てくる映画は、筋書きだけ知るといかにもウディ・アレン映画なのだけど、実際見てみると、しっかりジョン・タトゥーロ映画なのだった。
 
 
それにしても今日の日記、何回ウディ・アレンって書いたかしら。(日本野鳥の会スタイルでカウント・・・)

2015-01-28

Davis Cone etc...



「映画館と観客の文化史」(加藤幹郎著/中公新書)は、この切り口からの文献を初めて読んだ私には、抱いてた微かな疑問の謎が解けたり、目から鱗のトリビア満載で、取り上げられてた映画館のうち、現存するものには是非行きたくなったし、古い映像資料も観られるものは観たくなった。いくつかメモ。
 
 
Davis Coneというアメリカの画家。この上に貼ったSTRANDの画像もそうなのだけど、写真ではなくてハイパーリアリスティックな絵なのだ。アメリカ中を旅して、30年代の中小規模のアール・デコ風映画館を描き続けている人とのこと。加藤幹郎氏の絵についての解釈は本に書かれているのだけど、それはそれとして私は、シネコンでもなく豪華絢爛なピクチュア・パレスでもなく、この規模の映画館を敢えて選んで描くのは、一番失われる可能性が高い映画館だからではないだろうか、と思った。よく通っていたけど、もう存在しないミニシアターや名画座の写真を、どうしてちゃんと撮っておかなかったのだろう、と私が悔やんでいるのと同じ理由で。
 
 
 
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LAのエジプシャン・シアターは何故、エジプト風なのだろう。と漠然と考えていたのだけど、建設当時の1922年は「ツタンカーメン王墓の劇的発掘以来、欧米を中心に古代エジプト様式を模したピクチュア・パレスの建設が流行」したことが理由らしい。え?そんな理由で?ってポカーンとした。じゃあもしかして、ロンドンのハロッズも同じ理由?と思ったのだけど、ハロッズはツタンカーメン王墓発掘以前に建てられており、エジプト様式の内装は90年代後半、エジプト人がオーナーになった際に手掛けたものとのこと。
 
 

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映画館以外にも、映画が立ち上がる場所について説明されており、例えば紹介されていたのは1940年代に流行したサウンディーズという音楽映画が流れるジュークボックス。レストラン、ナイトクラブやホテルのロビーに設置され、10セント投入すると、だいたいの場合カーテンが開く場面から始まり、デューク・エリントンやカウント・ベイシーが登場し1曲披露してくれるのだとか。フィルムリールは週に1、2度交換されるから、新曲がすみやかに覗き込む観客に提供されたらしい。UCLAのフィルム・アーカイヴなどに大量に残っていて観ることができるとのこと。


http://www.youtube.com/watch?v=i2oJUlpm6uI&sns=em

Youtubeにもいくつか。これはsoundiesを解説する動画。じっくり観たい。

 

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このBlog、過去の投稿に貼っていた写真のリンクに不具合があり、うまく表示されない…。コツコツ直していくけど、直せるかなぁ…。

 

 

 

 

 

2015-01-27

白日焰火

 
 
 
ヒューマントラストシネマ有楽町で。中国映画「薄氷の殺人」を観る。ベルリンで金熊賞と銀熊賞(主演男優賞)を獲ったとのこと。英語版のポスターがかっこよくて、この写真のように、車に積まれた石炭に、ビニールシートに包まれた死体が混じり、工場に運ばれ粉砕されるうちにバラバラ死体になっていく冒頭がかっこいい。
 
 
連続殺人を追ううち、疑惑の中心にクリーニング店の薄幸そうな若い女が浮かび上がる。まわりにいる男がどんどん殺されていくその女に、近づくうちに刑事も深みにはまっていき…というフィルム・ノワール。
 
 
中国の東北地方が舞台で、冬は厚い氷に包まれる。あ、これはちょっと集中して観られないかも。と思ったのは、私が暮らしていた90年代最後あたりの北京の風景は、最近の中国映画で映る地方都市によく似ていて、街や生活のディティールばかり観てしまうのだ。北京は首都なりに進化してるようだけど、地方都市の風景はあまり変わっていない。けれど物価は経済発展を反映して上昇しており、アイススケートの靴レンタル1時間15元、高い!と看板を観ては思い、革パンツのクリーニング代30元はそれほど高い気がしないけど、そもそもどういう工程で洗ってくれるかよね…と店の設備を確認し、ほとんど手をつけずに女が残して去っていった蒸しあがったばかりのほかほかの包子、お店の人に言って包んでもらうよね。など、そういうことばかりに目が停まってしまう。
 
 
途中から転がり始める物語は説明不足で、その代わり闇夜に浮かび上がるナイトクラブのネオンのショットなどが意味ありげに挿入されるのだけど、美しさやエキゾチシズムを感じる前に、名前を読んでしまって、ほー、白昼花火ナイトクラブかぁ。など、やはり物語から浮いたところを漂っているうち、不似合いなほどけたたましい主題歌が流れ映画が終わった。
 
 
美容院での銃撃戦の間合は北野映画、観覧車のシーンは第三の男、監督、映画好きで、いつか自分の映画であれをやってみよう。って、たくさん貯めていたのだね。などと思った。主演俳優は徐々にかっこよく見えてくるのが不思議で、何より謎の女を演じるグイ・ルンメイは「藍色夏恋」のあの美少女がこんな大人に!という感慨は傍に置いても、ここのところ観た映画の中でも、ファムファタールぶりは傑出していた。気をひくそぶりなど微塵も見せず、ひたすら受け身で、けれど拒絶もせず、物憂げで、言葉少なで…。氷に覆われた街に似合う儚げなファムファタールの人物造形は、好みだった。
 
 
 
 
上映時間を調べていたら、配給会社の煽り文句として「賛否両論巻き起こる、独創的な作品。映画短評、5人の目利きの方々はこぞって高評価」と力強く宣伝されており、今時そんな煽り方で、よし!じゃあ観に行こう!って思う人っているのかなぁ…とモヤモヤ。否定したら、映画の見方がわかってない!って言われてるみたい。そもそも目利きとは何ぞや。観た人の数だけ違う感想があるだけだと思うよ…。
 
 
と、いろいろ言いたくなるだけで、この映画はすでに成功しているのかもしれない。中国の景色にエキゾチシズムをまるで感じなかったのは私の事情で、そしてエキゾチシズムを感じるか否かは、対象との心の距離感か。距離が近づいても感じるってこと、あるのかなぁ。
 
 
ベルリンのコンペ、「グランドブタペストホテル」よりは面白かったけど、「Boyhood(6才の僕が大人にになるまで)」を抑え、この映画が評価されたというのも、審査員たちの中国との心の距離ゆえかもな…など、つらつら考えてみないと、新しい映画の発明!と思った「Boyhood」が素晴らしかったので、納得できない。
 
 
観終わった後、ほかほか湯気の包子は、食べたくなったけれど。

 

 

 

 

 

2015-01-26

memorandom / Random library

 
 
文筆家・長谷部千彩さん主宰の「ZINEじゃないけど、ZINEのような」Webマガジン「memorandom」に参加させていただきます。
 
おすすめの本を紹介するRandom libraryに書かせていただきました。
 
 
過去の更新のアーカイブはこちら。メトロで移動してる時など、ふっと思い出してmemorandomを開き、読む時間がとても好きです。
 
 
加藤幹郎さんの本、初めて読み、行間からほとばしる映画愛に溺れそうになりつつ、次は名著と名高い「映画とは何か」を読みたいな。と、タイトルでリサーチしてみたら、噂には聞いていたけど「映画とは何か」というタイトルの本、たくさんある。
 
 
いつか読もうと思っていたアンドレ・バザン「映画とは何か」新訳が野崎歓さん訳で出ることを同時に知り、共訳者に古い知り合いの名前を発見。おお、ご活躍で!という気分で、バザンのほうを先に読んでみたい。読むのが遅いので、加藤幹郎さんのほうには、きっと当分たどり着けない…。

2015-01-25

Revival schedule


映画のリバイバル上映ニュース、嬉しい2本。
 
 
ブレッソン「やさしい女」4月4日から、新宿武蔵野館で。
ブレッソンをまとめてスクリーンで観ることを長らく願ってるのだけど、注意していても東京でかかるのは年に数本だと思う。「白夜」同様、ドストエフスキーの短編の映画化。「白夜」、大好きな映画で、原作にも手を出したものの、あまりに読みづらくて3ページで放棄。主人公の男が女に出会い、久しぶりに話し相手に会った興奮で自分のことを脈絡もなく話し続ける言葉が、ページをめくってもめくっても終わらなくて辛かった…。あんなに喋りすぎる男を、ほとんど話さない寡黙な男に仕立て上げたブレッソン版だけで私は十分。話しすぎる人は小説でも映画でも現実でも苦手らしい。
 
 
そしてエドワード・ヤンのことを思い出していたら、「恐怖分子」が3月14日からリバイバル上映されることを知った。イメージフォーラムで。
 
 
96年に公開されて以来、大規模なリバイバルは初めてらしい。京都で映画のチラシをもらったものの、当時は見なかったはず。でもチラシのデザインが好きで、捨てずに持ち続けていた。セロテープつきなのは北京の部屋の壁に貼ってたから。2007年、エドワード・ヤンが亡くなった年、秋の東京国際映画祭で追悼特集があり、通って全てのプログラムを観た時、「恐怖分子」を初めてスクリーンで観て、これまで他の映画だと思ってたけど、これがエドワード・ヤンで一番好きかもしれないと思った。抑制の効いた乾いた映画。変わり始めた私の映画の好みを規定した1本。
 
 
「エドワード・ヤンへと続く道」という、追悼特集でもらった冊子を読み返していて「恐怖分子」の紹介の中に、ブレッソンの名前が挙がっていた。
 
 
「簡潔なショット、最小限の音声による鋭い時空間の醸成は、ロベール・ブレッソン監督が引き合いに出されるほどの強度を誇っており、「街」そのものの病理を、錯綜した人間関係のほつれにトレースしたかのような構造は、群を抜いた効果を発揮している。」
 
 
そうそう、「恐怖分子」とブレッソンの映画は、自分の心の同じパートが好きだと言ってる感じで、「ヤンヤン 夏の思い出」などは別のパートを使って好きだと思ってるから、エドワード・ヤンはやっぱり1作ごとにガラリと変わってた。
 
 
フィルモグラフィーを思い出し、何か1本観るなら「恐怖分子」と思っていた矢先のリバイバルニュース、嬉しい。これを機に他のも観られるといいのだけど。もちろん「クーリンチェ少年殺人事件」をいつかスクリーンで観たいという夢は諦めてはいないけど、日本ではあいかわらず難しいのだろう。
 
聞くところによれば、の前置きつきで、込み入った事情があるらしく…
 
 
東京国際映画祭の特集でもあの映画だけかからず不自然だった。パリでは何年か前、確かシネマテークにかかったと聞いたので、いつか異国ででもタイミングがあって観られたらいいな、と虎視眈々と狙っている…。あの映画を観られるならば、お金やら能力の提出やら、できる限りのことはする。と思ってる映画好きは少なくないに違いない。

2015-01-24

The student prince in old Heidelberg


 
シネマヴェーラ、「雨に唄えば」の併映はルビッチ「思ひ出」。1927年、アメリカ製作のサイレント。「雨に唄えば」は映画中映画としてサイレント映画が上映されているシーンがたくさん出てくるので、「雨に唄えば」+「思ひ出」の組み合わせ最高。観る順番によって見方も変わりそうな。
 
ザクセン公国の皇太子カール・ハインリッヒと、留学先のハイデルブルグの下宿屋の娘・カティの恋が描かれる。恋の場面は中盤からで、前半は留学前、幼少期、友達と元気に遊ぶ同年代の子供たちを指をくわえて眺めてる皇太子や、皇太子の成長に熱狂する公国の人々の姿が映し出され、やがて自由でちょっとルーズな家庭教師との出会いにより、息の詰まりそうな人生が徐々に開かれていく。この前半があったから、留学先での恋が活きる。
 
 
皇太子と下宿屋の娘の恋は、「ローマの休日」の男女反転版のような伸びやかさがあり、けして結ばれないこと、タイムリミットが迫ることを知っているからこそ美しい。月夜に皇太子が娘を追いかけ、森を走り、木々をすりぬける姿が横移動のカメラで映し出される。走り、木の後ろを抜け、走り、木の後ろを抜け、走り…木の後ろを抜けず、反対方向から猫が歩いてくるあのショット!扉の演出はほとんどなかったけど、これこそルビッチ・タッチ!そしてたどり着いた月に照らされると夜の花畑。月の光を浴びて咲く白い花。
 
字幕が極端に少なく、あったとしてもほとんど何も説明していない中、2人がお互いの名前を呼びあうとき、字幕に書かれた名前がズームされるのが、こんな手法で恋の高揚を表すこともできるのか…と唸らされる。
 
 
結末はもちろんほろ苦いものの、もう一度、娘に会いにハイデルブルグに馬車を飛ばす前の、亡くなった国王の肖像画の前のでワイングラスを掲げ、「もう1日だけ、人生と愛を!」という台詞の素晴らしさ!
 
 
 
国王になった彼を、王様っていうのは本当にいいものなのだろうねぇ。と市民たちがしゃべり合うショットは前半の反復。ラストの表情のせいで、数日は余韻に浸るはめになる。ルビッチのサイレント、何本か観たけど、今のところこれが暫定1位かもしれない…。
 
 
恋とはどういうものかしら?の、私の考えるひとつの答えとして提出したい1本。「The student prince in old Heidelberg」という英題に、「思ひ出」と見事な日本の名前を与えた人にワイングラスを掲げたい。

 

2015-01-23

Singin' in the rain


 
 
 
東京に弱い雨が降る中を、シネマヴェーラに「雨に唄えば」を観に行く。前に観たのもシネマヴェーラだった。5~6年も経つと、断片的に覚えてはいるものの、筋書きはすっかり忘れていて初めての映画みたい。これは「アメリカの夜」のような、映画作りを撮る映画だったのね。トーキー移行初期の映画作りのドタバタを描いた物語だから、サイレントやトーキー初期の映画がたくさんかかる「映画史上の名作」特集でかかると、感慨ひとしお。
 
 
 
歌と踊りの素晴らしさは言わずもがな、「雨に唄えば」の筋書きを忘れるほどの年月の間、「ロシュフォールの恋人たち」を何度も観たので、ピカッ!というフラッシュ音が聴こえてきそうな笑顔を観ただけで、おお!ジーン・ケリー!と興奮。「ロシュフォールの恋人たち」でも、楽譜を拾ってあげて顔を上げたジーン・ケリーのピカッ!のショットがあったような・・。タップダンスもアステアの洗練と違って、ジーン・ケリーはアメリカの良心とでも呼びたくなるヘルシーな明るさがある。白い歯!.....どっちかというとアステアのほうが好きだけど.....ジーン・ケリーと一緒にいると、疲れたときピカッ!に負けてしまいそうだし(妄想).....
 
 
 
 
 
 
記憶からすっかり抜け落ちていた助演陣の見事なこと。ドナルド・オコナーの顔芸。「Make'em laugh」、身体能力に驚愕。
 
 
そして悪声の我が儘女優を演じるジーン・ヘイゲン。後半ますます憎まれ役になっていくけど、踊りや歌頼りではなく、「雨に唄えば」がしっかり物語として成立しているのは、ほとんどこの人のおかげでは・・?と思うほどの演技。映画の中でデビー・レイノルズが拭き替える声は、ジーン・ヘイゲンの声とのこと。美声で歌も上手く、あの悪声は全部演技なのね。アカデミー賞では「雨に唄えば」は作品賞、監督賞さらにはジーン・ケリーすら主演男優賞にもノミネートされなかった中、ジーン・ヘイゲンは獲れなかったものの助演女優賞にノミネートされてる。
 
 
 
 
 
 
 
総天然色と呼びたいカラフルな映画、暗い冬の夜に観るのもまたいいもの。映画そのものが圧倒的な生の肯定に満ち溢れていて、スクリーンが明るいビームを放ってるみたいで、観終わると細胞がざわざわ活性した。元気の出ないときに観るとよさそう。物欲の弱い私だけど、「雨に唄えば」、ブルーレイ買おうかな・・。

2015-01-22

苏州河





アップリンクにしょっちゅう通ってるせいか、もうすぐ公開されるロウ・イエ「二重生活」の予告篇を何度も観るうちに、すっかり観たくなってきた。長らく見逃してきた監督なので、隙間の時間を見つけて過去作をDVDで観ている。


「ふたりの人魚」、色数の少ない上海、物憂げな手持ちカメラ、男のモノローグ。
消え入りそうにか細い女が「私が消えたら、死ぬまで探して。人魚になった私を。」なんて台詞が違和感なく馴染む世界で、
観ている間は気持ち良かった。
ジョウ・シュンの身体の線の細さ、所在なさが役柄に似合っている。
ファンタジーだなぁ。ロマンチックな男の人が作った恋愛映画だなぁ。と思いながら観終わった。


「サッドティー」に描かれるのも、「ふたりの人魚」に描かれるのも、恋愛という同じ名前の感情なのが面白い。最近、野太い女ばかり出てくる映画ばかり観ており、世の中の映画はこんなのばっかり?と思ってたけど、単に自分がそういうのを選んでいただけ。映画も女も振り幅は大きい。


ジャ・ジャンク―のドキュメンタリーを観た時、中国は依然として映画監督には厳しい環境なのだなぁと思ったけど、ロウ・イエも天安門事件を描いて5年も映画製作禁止をくらっていたらしい。それでもゲリラ撮影で、正当に作っていればまた検閲で引っかかるだろう映画を作ったって、しぶとくていいなぁ。


「二重生活」、こちらのイベント素晴らしい。明日、本郷で。



刈間文俊さん、お名前に見覚えが・・と思ったら、何年も前、東大・駒場キャンパスで開催された「映画と〈敵〉――中国語圏映画における日本軍の表象」 というシンポジウムに誘っていただいて聴きに行ったとき、後半、客席からの発言で混乱した会場を、「ここは政治的な討議の場ではなく、学術的研究成果の交換の場である」とおさめて、「映画においては、そこに何が映っているのか?を虚心に見つめたい」 とおっしゃったのに胸を打たれた。司会をされていた野崎歓さんも謙虚に場をまとめておられたのが印象に残っている。


近所ということもあって是非行きたいけど、時間が合わなくて残念。別の日に、ロウ・イエの話を聴きに行く予定。

2015-01-21

La Vénus à la fourrur


 


ヒューマントラストシネマ有楽町で。ロマン・ポランスキー「毛皮のヴィーナス」を観る。カメラを持ち歩くことにした。と言った舌の根も乾かぬうちにさっそく忘れたので、iPhone写真。この映画館好き。会員システムがとても使いやすい。


マゾッホの自伝を戯曲にしたものをさらに映画化した。という成り立ちは複雑だけど、映画自体はシンプルで、最初と最後にパリと思われる街の劇場周辺が映されるだけで、あとは劇場内、観客席と舞台上、時々舞台裏のみが映される。登場人物も2人だけ、男女ひとりずつ、エマニュエル・セニエとマチュー・アマルリック。


「毛皮のヴィーナス」という戯曲の主演女優のオーディションに遅れてきた女は、奇しくも役名”ワンダ”と同じワンダという名前。ひとり劇場に残っていた演出家・脚本家と、女優の2人だけの読み合わせが始まる。粗野で図々しく、安っぽい服を着てびしょ濡れで登場したワンダは演じ始めた途端、”ワンダ”に豹変し、マゾッホの自伝に密かに共感していた男はワンダの豹変にも、目の前にいる”ワンダ”にも夢中になっていく。素と演技、”ワンダ”とワンダを女はめまぐるしく往復し、やがて男と女の役割も入れ替わり・・。


覗き見する楽しみってこういうことなのかな。そして男の求める”ワンダ”が役を脱ぎ捨て、”ワンダ”とは女の意志の外にある、ただの男の欲望の投影に過ぎない。と吐き棄てて高笑いしながら去っていく最後はゾクゾクした。エマニュエル・セニエの姿、フェリーニの映画に出てくるグロテスクな女みたい。ポランスキーの、強烈な女たちに彩られた強烈な人生よ・・・。

 

そして映画館ならではと言いましょうか、隣に座ったサラリーマンらしき服装の男性が、始まったとたん眠りに落ち、やがて熟睡・・鼾が響き渡る・・・という状況だったので、目と頭をフルに使って楽しむ2人芝居、集中力の持続が難しかった・・。私はトリュフォー映画が大好きだけど、トリュフォー特有の中だるみに負けて途中、必ず眠ってしまう映画がいくつかあり、「恋愛日記」が特にそうで、男が女の脚を追いかける→眠る→目を開けると、まだ男は女の脚を追いかけている→眠る→ずいぶん時間が経ったはずなのに、まだ男は女の脚を追いかけている→え?→FIN→え?という記憶しかないのだけど、「恋愛日記」とは、男が女の脚を追いかける話であるな?と人に話してみても、そうである!と同意あるのみなので、間違ってはいないらしい。


90分ほどの短い「毛皮のヴィーナス」の95%を、その人は眠っていた。目が覚めるたびに男女の関係がくるくる入れ替わる「毛皮のヴィーナス」、彼にとってはどんな映画だったのだろう。

2015-01-20

サッドティー


 
アップリンクで。「FORMA」で女性監督嫌いを克服したので、次は「最近の日本映画嫌い」も克服したいな。と、今泉力哉監督「サッドティー」を観る。20代~30代の男女12人、誰からもいくつも矢印が出るくらい相関図は入り乱れ、狭い世界でみんな、恋って何かしら。という話ばかりしている。
 
 
 
 
12のチャプターから成る軽い日常が描かれ、愛だの恋だのの物語にとっくに飽きた私が観ても退屈しない。あからさまなコメディでもないの大笑いしたのは、当事者は大真面目でも、傍観者である限りは、ただの滑稽なお話。というあたり、まったく恋そのものであることよ。
 
 
ロメールの教訓話のエッセンスも、ホン・サンスの情けなくも可愛らしい男たちのエッセンスも入っているものの、サッドティーがそれらと違うのは身体の接触がひとつもないこと。あ、頭ポンポンはあったかな。でも、その程度。物語が切り取らないところではあるのだろうけど、物語には身体が入ってこない。触らない位置で、思考と会話があるだけ。
 
 
相関図の中心にいる柏木というメガネの男は、公然と二股をし、一緒に暮らす女の隣で「あーあ、俺も真剣に誰かを好きになりたいよ・・」などとのたまういけすかない男だけど、彼がモテるのはよくわかる。夏にフィルムセンターで「「妻二人」を観た時、昔の女・岡田茉莉子、現在の妻・若尾文子の間にいる高橋幸治も、こういう男を演じていた。
 
 
 
 
こう、棒を転がして「無題」というキャプションを横に置き、現代美術館に並べておけば観る者がそこに意味を見出そうと躍起になるような、そういう男。私が面白く思う恋愛映画は、そういう男が中心にいるもので、だからサッドティーは面白かった。恋の力学においては、サッドティーのコピーのように「ちゃんと好きってどういうこと?」とか「あなたのこと考えて眠れなかった」など、関係に名前をつけたがったり、気持ちに定義を見出そうと詰める人間は永遠に振り回される側なのだな。
 
 
こちらの監督のトーク、面白い!
 
 
 
「片思いや一目惚れといった、誰かを追っている状態までは好きだと思う人が多いのですが、つき合ってしまうときちんと好きでいられなくなるんです。基本的に自分がモテる人ではないので、彼女がいるという状況が気持ち悪いというか。 」
 
 
気持ち悪いというか。って・・。この世には本当にいろんな人がいるのだな・・。

 

 

2015-01-19

Starring



年末に借りたレコード、部屋にいる時間が長かったせいか、すっかり聴いた気になったので入れ替えるべく新たなレコードを予約。「スウィング・ホテル」を観た余韻から、アステアを借りてみようと検索。図書館に在庫が何タイトルかある場合、Googleに聞いてみるとどんなアルバムか教えてくれるのだろうけど、わからないままタイトルだけで借りてみるのも面白いかな。と、博打気分で選んでいるので、貸出カウンターで初めてジャケットを見ることになるのだけど、アステア「スターリング」、シルクハットにステッキ、アステアらしくて素敵!
 
 
 
 
さっそく聴いてみると、中身も素敵。「トップ・ハット」や「有頂天時代」などアステアの代表的ミュージカル映画の楽曲から、ガーシュウィン、アーヴィング・バーリン、ジェローム・カーンの歌曲を選りすぐって並べてある。歌いながら踊るアステアのステップも聴こえてきて、踊るアステアをまたスクリーンで観たくなる。
 
 
歌も軽さがあっていいなぁ。「スウィング・ホテル」でも、歌担当としてキャスティングされていたビング・クロスビーより、アステアの歌のほうが好きだった。解説に書かれていることには「ダンサーとしてあまりに偉大だったために、歌の方はやや過小評価されてきたことも事実だった。しかし、粋でソフィスケイトなアステアのボーカルはむしろ玄人筋に人気があった。こんにちジャズ・ボーカル界のスーパー・スターとされているメル・トーメは誰よりも好きな歌手としてアステアをあげているが、彼のボーカル・スタイルにはアステアの影響がいまもみえる。」
 
 
適当に借りたにもかかわらず大当たりだったので、己の選球眼にほくほくした気持ちになったけど、そもそも選択肢が少なくて、他の候補は「これがエンタテインメントだ おもしろ音楽大集合」か「永遠のMGMミュージカル オリジナルサントラ集」しかなかったのだった。「スターリング」一択するしかない。むしろこんなアルバムが欠損することなく区の在庫に生き残ってくれたことをおおいに喜ぶべき。
 
 
A面では「CHEEK TO CHEEK」(映画「トップ・ハット」)、B面では「LET'S CALL THE WHOLE THING OFF」(映画「踊らん哉」)が、今のところ好き。返却するまで何度も聴こう。

 

2015-01-18

Eric Rohmer booklets


 
 
収集癖は皆無ながら、唯一コツコツ集めてるものは、ロメール映画のパンフレット。ただのパンフレットならキリがないから集めないけど、シナリオが採録されているから上映機会の少ないロメール映画を思い出そうとする時、役に立つ。最近4冊増え、四季の物語をコンプリート。嬉しかったのは「レネットとミラベル 4つの冒険」が手に入ったこと。
 
 
 
 
何故かこのパンフレット、裏表紙が「クレールの膝」で、そちらのシナリオも採録されているけど、それ以外はほとんど「レネットとミラベル 4つの冒険」についての内容ばかり。同時上映だったのかな…?
 
 
おそらく20歳そこそこだった鷲尾いさ子さんの談話採録があり、言葉が瑞々しい。その名のとおり2人の女の子の物語で、都会から来たミラベルがヴァカンス先の田舎に暮らすレネットと出会い、意気投合した2人がパリで一緒に暮らす。都会の女の子、田舎の女の子、という対比もさりげなくあり、鷲尾いさ子さんは「たとえばラジカセをかけながら踊るシーンで映ったスニーカーひとつにもはっきり違いが出ているのね。」と、とても細かく見ている。
 
 
2人の衣装のナチュラルさについての言葉は続き、翻って日本の女優である自身との比較として「私の出た映画やテレビ番組では、セット係の人がインテリアを決めてしまうので私たちの感覚とピントはずれなお人形が飾られたり、体になじまない新品のカバンをいきなり渡されると本当は使いたくないですよね。」と、ばっさり。
 
 
「私にとって、公開されたロメールの映画を全部見ているということは、宝物のようです。ロメールの女の子たちの"生活"をたくさん知っているということは何かが胸の奥に温かく積もってくるような感じがします。」という言葉で結ばれている。ロメール映画について私が思うことを、こんなにちゃんと表現してくれるなんて、鷲尾いさ子さん、素敵な人だなぁ。去年の秋、 キネマ旬報で橋本愛さんがトリュフォーについて話してるのを読んだことを思い出した。 映画が好きだという人と話をしていて、トリュフォーやカサヴェテスの名前を挙げたら、それは誰?という反応が返ってきて寂しい思いをした…ということが話されていて、おお。20歳そこそこの自分も同じ寂しさがあったし、その寂しさ、今も少し続いてるよ。と思いながら読んだ。
 
 

パンフレットなのだから当たり前だけど、公開当時の熱気があって、世の中にこんなにもこの映画を語ってる人たちがいたなんて!ロメールの話をしようとするとまず名前が挙がるのが「緑の光線」で、それ以外の映画はぐっと話し相手が限られる。「レネットとミラベル 4つの冒険」など、観終わった後の「!」という興奮をほとんど1人で身体の内側に温めるうち、何かが発酵してきた気すらする。

 

2015-01-17

Pierrot le fou

 
 
年が明けて、エルメスの新しいシーズンが始まった。2015年の年間テーマは「フラヌール ー いつでも、そぞろ歩き。」、月替りの映画プログラム、1月はゴダール「気狂いピエロ」。毎月楽しみにしてるエルメスの映画プログラム、こんなに楽しませてもらってるのだもの、今年はエルメスで何か買おうかな。と、ウィンドウを覗き込むと、コートや靴や小物より、白いぴょこぴょこ動く生物みたいなアートばかり気になって、商品が目に入らない…。
 

 

 
 
何度も観てる映画なので、上映の機会があってもだいたいパスするのだけど、久しぶりに観ようと思ったのは、もらえるリーフレットの、エルメスの上映プログラム監修アレクサンドル・ティケニス氏の文章を読みたかったから。年間テーマと「気狂いピエロ」の紐付けや、そもそも氏がこの有名な映画をどう文章化するのか。新橋文化劇場無き今、東京の映画館でプログラムを一番楽しみにしてるのはメゾンエルメス。何年か前の「スポーツは素敵!」特集の短篇映画プログラムで古いフランスの短いニュース映像のような短篇をピックアップしたあたりから気になって。それは、かつて、家事は重労働だったけれど現代は家電製品の発達により女性の運動量は減少している。だからみんな今まで以上に運動しましょう。という啓蒙の短篇で、後半は美容体操映像だった。「スポーツは素敵!」のテーマで、これを選ぶセンス!アレクサンドル・ティケニス氏のこれまでの映画人生・今の映画生活に興味津々。何を食べたらそう育つの。
 
 
「気狂いピエロ」についての文章は、この映画に登場する2つの「彷徨」の解説と、この映画がゴダール第1期の掉尾をかざる作品であり、ベルモンドの最後の身振りは「現代美術のパフォーマンスと同じように政治的な意味をにない、ゴダールの来るべき作品を予告するものである。」との内容。
 
 
何年ぶりかの「気狂いピエロ」は、無邪気で幼い映画に見えた。深読みはいくらでもできるけれど、難解さに表情を硬くしながら観るような映画ではない。言葉より身体の動きのほうが目につき、動きを追うとずいぶん無邪気。浜辺でアンナ・カリーナが再登場するシーンはミュージカル仕立てで、ロシュフォールの恋人たちのように、画面の隅に移る役者まで踊っているのがまったく馬鹿馬鹿しい…。そしてティケニス氏の文章を読んだせいかもしれないけれど、ゴダールの中で或る季節が音を立てて終わったことを形にするための映画だったのかな。アンナ・カリーナを殺し、自分の分身としてのベルモンドを爆破し、自分で荒々しく幕を下ろす。それなりに生きていると自分にもそのような出来事は何度かあって、どのように幕を下ろすかは人それぞれで、映画監督は映画で幕を下ろし、次の章へ向かったのだな。と、その作法、見せていただきました。という気分で外に出た。

 

 

 

 

そのあたりは、こういう本をちゃんと読むとゴダールが何かを語ってるのかしら。ゴダール、カリーナ時代。仏語だから、では読みましょうか。とは、すぐ思えないのだけれど。山田宏一さんの「ゴダール、我がアンナ・カリーナ時代」も読んでないけれど、山田宏一さんによる映画評のようだから、この翻訳というわけではないらしい。

 

「アルファヴィル」を観たのも、たしか今週だった。1週間に2本もゴダールを観るなんて、10代みたい…。新作はもちろん3Dで観るつもり。

 

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メゾンエルメス、今後の上映をメモ

2月:ベルナール・ケイザンヌ「眠る男」

3月:アニエス・ヴァルダ「ジャック・ドゥミの思春期」

4月:アラン・ゴミ「アンダルシア」

 

最近のメゾンエルメスは争奪戦で、あっという間に予約が埋まる。

http://www.maisonhermes.jp/ginza/movie/

 

 

2015-01-16

カメラ問題


 
12月、iPad miniの容量を確保する必要に迫られ、カメラロールにあった大量の写真をクラウドに移した。移しては消されていく過去に見た風景。デジタル一眼、コンパクトデジタルカメラ、古い2つ折り携帯のカメラ、iPhoneは3代目だったかな。いろんなカメラで撮った写真を見て思う。写真は、ちゃんとしたカメラで撮るに限る。いくらiPhoneが便利であろうとカメラの性能が向上しようと、画質は雲泥の差。並べてみると一目瞭然。
 
 
 
パリで撮った映画館の写真が少なくて残念。東京に戻ってからはデジタル一眼の持ち歩きも億劫になり、もうなくなってしまった映画館の外観を撮ったのはいいものの、携帯写真クオリティなのが惜しい。映画館に通うことがかなりの頻度で日常に組み込まれている生活を送っているくせに、好きなものの写真をちゃんと撮らない過去の自分がもどかしい。観光名所なんてもっといいカメラで一生懸命撮る人がごまんといるのだから、そちらに任せておけばいい。エッフェル塔は私が死んでもずっと建ってるだろうけど、浅草中映はもう存在しない。
 
 
 
反省し、カメラを毎日持ち歩くことにした。「レディ・イヴ」の上映を待つシネマヴェーラ渋谷のロビー。「映画史上の名作」特集で上映される古い映画のチラシやスチルが飾ってある。「ニノチカ」のパンフレットなのか、貼ってあった淀川長治さんの文章、面白かった。おしゃべりみたいにまとまりがなく、ひとしきり好き放題書いた後の最後の一文が製作は・・誰々・・。といった、それは文中に書くのでは?という説明文章だったのが可笑しい。最後に思い出したのかしら、これは仕事として書いてるんだって。そんな写真には写っていないことも、目の記憶力が強めの私は、写真を見れば思い出せる。
 
 
2年ほど前に買ったまま使わず放置していたRICOH GR(DIGIRALⅣ)を引っ張り出し、再セッティング。たまに持ち出す程度の使い方では名機と呼ばれる理由がよくわからなかったのだけど、毎日使ってみるとじわじわわかってきた。さっと取り出せて目の延長みたいに使えるのに、写りがいい。変な甘さがなくて寡黙な男みたいな写真になるのもいい。単焦点の制約があることで、撮り方の工夫をするようになるのもいい。ペンや財布のように、毎日使う道具として設計されているのだな、これは。けど、ほんの時々、ズームが欲しい時もあって、GRのような写りで、大きくも重くもなく、大げさじゃないズームがついてるものを物色している。つるっとした質感や、クラシック風の見た目じゃなくて、ずっしりカメラ!なデザインの。ズームを使いたいのはだいたい映画祭の時だから、フランス映画祭までに好みの一台が見つかるといいな。

 

 

 

2015-01-15

The lady eve





シネマヴェーラ「映画史上の名作」特集でプレストン・スタージェス監督「レディ・イヴ」を観る。「シャレード」と併映だけど「シャレード」、それほど面白いと思えないのでラスト1本でこれだけ。プレストン・スタージェス、何年か前、シネマヴェーラの同じ特集で観て名前を覚え、特集ラインナップが発表されるたびにルビッチの次に名前を探す人。脚本家から映画監督に転身した最初の人で、スクリューボールコメディーの名手。いつも思う。「スクリューボールコメディー」って言葉、大好き!「映画は大映」と同じぐらい、いい映画言葉。





「レディ・イヴ」は1941年の映画。シルクハットかぶった蛇が尻尾でマラカス振りながらリンゴに絡みついていくオープニングのアニメーション、洒落てる!シルクハットも蛇もリンゴも全部映画からのモチーフ。ヘンリー・フォンダ演じる男が蛇の研究者、さらに大富豪の御曹司。南米からの客船のデッキから女がわざと食べかけのリンゴを男の頭上に落とすのが2人の出会い。


船中の総ての女が、御曹司を狙ってやきもきする中、手慣れたもんよ。と、あっという間に部屋に誘い込む女は、実は詐欺師で…という物語。女詐欺師がちょろまかしてやろうと近づいた男にうっかり惚れてしまうけど、素性がバレてダメになる…でもね…というところまでは展開が読めるのだけど、そこから先、この女の賢いこと!「ゴーン・ガール」のエイミーも真っ青の切れ者。あきらめない女は上流階級の女に扮し再び男に近づく。うまくいったと思ったら自分から台無しにして…(列車のショットが最高!)。え?何考えてるの?と思ってたらさらなる展開が…。さすが名脚本家で名監督、これぞスクリューボールコメディー!と唸る傑作。





ヘンリー・フォンダ、船に乗る前はアマゾンに籠りっきりで蛇研究にいそしんでいたから、1年ぶりに近づく女がキミとは刺激が強い…と言いながら近づいていく。蛇のことばかり考えてます。という男だから素朴。手練れの女にかかったら、すぐこんなふうに、くたーっとなる。




そしてヘンリー・フォンダのドジっぷりは至る所で発揮され、女のドレスの裾には気を使えるくせに(左)、頭上には不注意で珈琲まみれに(右)…。90分少しの短い映画で、何度ヘンリー・フォンダがコケる様子を目撃しただろう。ヘンリー・フォンダが!あの真面目なヘンリー・フォンダが!こんな役を演じるなんて!「怒りの葡萄」「荒野の決闘」「12人の怒れる男」あたりから1本と、この映画を組み合わせて2本立てで観てみたい。ずっと脳内にある「山猫」で没落した貴族がアメリカに流れ着いて夢果てる「泳ぐひと」とのバート・ランカスター特集とセットで、それが仕事とはいえ俳優ってすごいね特集、組んでみたい。


見たことのないヘンリー・フォンダに驚きつつも、女詐欺師を演じるバーバラ・スタンウィックには終始うっとり。見た目だけではもっと美しい人はたくさんいるのだろうけど、演技も仕草もキレがいい。小股の切れ上がったような。という表現がぴったり。レストランでコンパクトを出して化粧直しをするフリをしながら、「御曹司とそれを狙う女ども」をじっと見つめ勝手にアフレコし始める場面から演技にうなり始め、台詞まわしに感じる淡いミヤコ蝶々の香りは何…と思いつつ観ていたら、男が「Snakes are my life,in a way」蛇こそ我が人生なのさ、と言った後、絶妙の間を置いて「What a life!」と女が言った時、脳内で「…なんちゅう人生やねん…!」ってミヤコ蝶々の声がついに響いた。イーディス・ヘッドによる衣装の数々はなかなか露出が激しく、着こなすバーバラ・スタンウィックの身体の綺麗なこと!食べ物を節制してます。という身体ではなく、動いて引き締まってます。という身体で、2人が接近のする靴のシーンでは美脚が見事な小道具になっていた。バーバラ・スタンウィック、ダンサーでもあったのだな。バネが仕込まれてるみたいに弾む身体、弾む台詞。彼女のおかげで見事なスクリューボール・ロマンティック・コメディ!


最近話してて知ったのだけど、私の周囲の映画好きの女性にはロマコメ嫌い、ロマコメ苦手な人が多いらしい。確かにどれを観ても同じに見えるし、気持ちはわからなくはない。でも私はロマコメも好き!美しい男と女、歯の浮くような台詞、ロマコメは映画館の華である!それから、映画館で見逃したロマコメを何も考えたくない疲れた夜にぼーっとDVDで観るのも好き。反目しあっててもすれ違ってても最後にはうまくいくんでしょ?って決まってるから、何も考えずに観られてラク。カロリー消費しない鑑賞。


自分に合ったロマコメを選ぶコツを考えてみたら、私の基準は3つ。


【A】好きな男性が出てくること
見た目でもいいしキャラクターでもいいけど、見ていてストレスになる要因ができるだけ廃除されている男が、主役(もしくはヒロインの相手役)であること。見た目が好みすぎる俳優が出てて「2時間この顔を観られるだけでもういい。筋書きなんてどうでも」というのも幸せなこと。勤労意欲の高い人が好きなので「無職だけどいい男」とか2時間観るのは辛いので廃除したい。


【B】しゃんとした女が出てくること
同性への好みというのもあって、ノーラ・エフロン映画(恋人たちの予感、めぐり逢えたら、ユー・ガット・メールなど)を見返していて、ノーラ・エフロンのロマコメが古びないのは、女がみんな自立してるからではないか。という思いに達した。みんな職業を持ち自分の洋服や食事は自分で買う女ばかり。自分の欠落を埋めてもらうための誰かを探してるわけじゃないから、イライラせずに観られる。ダメな私でも愛して。みたいなのは苦手。


【C】テンポが良いこと
せっかちなので「速い映画」が好きなのだけど、ロマコメでテンポが悪いと「あの人に会えなくてぐずぐずする私」やら「別れを引きずってドロドロの俺」みたいなのをじっと観る時間を耐えなければならない。辛い。知らんがな、と思う。恋愛映画の名手、のような人ではなくて、いろんなジャンルの「速い映画」を作る人が今回は恋愛を撮りました。という映画を選ぶとハズレがない。スタージェスもルビッチも、川島雄三も増村保造もみんな速い。監督で選ぼう!と言ってしまうと身も蓋もないのだけれど。


スタージェス「レディ・イヴ」は、【B】【C】は極上、ヘンリー・フォンダは好みじゃないけど、普段と違ったヘンリー・フォンダは新鮮だったし、蛇学者として働き者なので【A】もそこそこ満たしてる。かなり高得点のロマコメなのだった。


コメディではないけど恋愛映画で「ブルー・バレンタイン」が逃げ出したいほど苦手だったのは3つの要件どれもダメだったから。では今までのところで私にとって最高のロマコメは何か?と考えると、増村保造「最高殊勲夫人」で間違いない。たいして恋愛に興味なさそうなマイペースな若尾文子よし、テンポ最高。





そして一番難しい【A】については、川口浩史上最高に可愛い川口浩が観られて幸せ!100点満点で200点!

2015-01-14

The soundtracks of Woody Allen




この間、ウディ・アレン「セプテンバー」をDVDで観ていて、音楽の好みは「ウディ・アレンの映画に流れてるみたいなジャズ」だけど伝わりづらい。と書いたら、「セプテンバー」の嵐の夜の場面、小さな音で流れる曲は「I'm confessin' (That I love you)」というタイトルだと教えていただいた。タイトルを知って改めて思い返すと、途端に場面に深みが増す。そんなタイトルの曲が、小さな音で流れるのがいかにも似合う場面だったから。


音楽について何の知識もなく、こういうのが好き。と言うと親切な人が貸してくれたりPCに入れてくれたりしたのを聴いたり聴かなかったりしてきたから、ある時ふと見るとiTunesが個人史…音楽遍歴ではなく、誰と一緒にいたかの履歴…になっていて、ヒヤリとした気分になり、それらを全部移していたiPhoneを機種変更と同時に処分。その後PCも壊れ、思い出ごと葬った。いつまでも音楽に詳しくならない。


好きな音楽が流れる映画たちなのだから、何の曲が流れているかに詳しくなれば、見逃していたことが見えてくるかも。と、網羅的に教えてくれるような何か…リサーチしてみたら、ウディ・アレンの1969年~2005年までの映画に使われていた音楽を淡々と解説する本が見つかった。絶版のようだったのでAmazonマーケットプレイスで取り寄せてみたら、忘れた頃にイギリスから届いた。


背表紙にシールが貼られており、ん?と開いてびっくり。大学の図書館から流れてきたものみたい。返さずに売った…のではなくて、借り手がいなくて払い下げになったのかな。University of Stirlingの学生さんは、私と同じ興味は抱かなかったらしい。そんな授業があるのか知らないけど、映画論の授業でもとっていれば、これだけでレポートばんばん書けると思うのだけど。







1969年〜2005年、フィルモグラフィで言えば「泥棒野郎」から「マッチポイント」まで。「マッチポイント」、網羅されてて嬉しい。こんな感じで一作ずつ、曲名、作曲者、演奏者名と解説がずらずら書かれてる。






これぞ求めてた本!さっそくいくつかレコード借りよう。まずは「マンハッタン」あたりからかな。しかしイギリスにまでクレームをつける気力がなく、面白かったからまあいいか、と思ったけど、本の状態は確かにいいものの図書館にあったことが丸わかりのあれやこれやがベタベタ貼られてるこの本を、condition : Used - Very Good と言い切る図太さは私にない。今年はこの手の図太さを身につけるべきって暗示だろうか。真似はしなくていいけど。


2015-01-13

Alphaville


 
 
イメージフォーラムで。ヌーヴェルヴァーグSF映画対決 トリュフォー×ゴダールという特集でゴダール「アルファヴィル」を観る。「華氏451」は、秋、トリュフォー特集でスクリーンで観たばかりなのでパス。「アルファヴィル」は、ずいぶん前に京都みなみ会館で観た後、2006年頃?アテネ・フランセ文センターで2度目を観て、ようやく物語の筋を理解した。3度目の今回は懐しい再会の気分。
 
 
近未来の架空の都市アルファヴィル(alphaville =alpha + ville)を裏で支配する教授、都市のすべてを管理し統治する巨大コンピューターα60、謎を追ってやってきた探偵レミ―・コーション、探偵が出会うアンナ・カリーナ扮する教授の娘。人間的な感情の全てを統治されるアルファヴィルでは「意識」や「愛」といった単語が辞書にない、人々はその存在も意味も知らない。
 
 
という筋書きはすでに頭に入っていたので、何も考えずに観た。映画好きの青年が集まる高校の映画部・・・「桐島、部活やめるってよ」の映画部のような・・が、友達をキャスティングして、父親のトレンチコートや母親のワンピースを衣装に借りて、身の周りにある景色で精一杯近未来っぽいロケ地を選んで、モノクロで生活感を消して…一生懸命、知恵を絞って作ったような可愛らしいSFだな、と思う。褒めてる。「華氏451」も好きだけど、この2本だと「アルファヴィル」のほうが私は好き。
 
 
 
 
アンナ・カリーナが一番美しく映ってる映画じゃないだろうか。膝丈のワンピースにレースの襟とカフス、コートの裾に白いファー、あらゆる映画の中で、ファッションが好きな映画Best3に入る。何年か前に「あ!アルファヴィルのアンナ・カリーナみたい!」って買ったCarvenのコート、さすがに狙いすぎな気がして着て観に行くのはやめた…。
 
 
アンナ・カリーナだけではなく、前半登場する「第3級誘惑婦」のシャツドレスもいい。レミー・コーションと女が廊下を歩く場面、シャツドレスの着こなしと歩き方だけで女が娼婦とわかる。シンプルなシャツドレスの、胸元も裾もボタンが深めに開いている。この職業だからこの洋服はこう着こなしました。という順番の着こなしを見るのが好き。10代の頃、京都で観た時、ぼんやりして物語の筋書きはわからなかったけど、あのシャツドレスの着こなしは強烈に記憶に残った。


アンナ・カリーナに話は戻り、B級ぽさ漂うSF世界にいるアンドロイドみたいな役がますます演技の拙さを強調していて、学芸会みたい。だけど煌めいている。ゴダールだけが輝かせることができる女優。愛ゆえに。というところなのだろうけど、「アルファヴィル」の撮影当時、2人の関係は冷めていて、最後のあのセリフは、もう一度アンナにカメラ(=ゴダール)に向かって愛の言葉を言わせるためだった…といったエピソードを遠い昔、何かで読んだ記憶があるのだけど、真偽やいかに。それって、映画を使ったソフトな暴力…と思ったのだけど。


パリの街を架空都市に見立てて作った一生懸命さが可愛いSF。当然ロケ地も気になる…と思ってたら、こんなサイト発見。素晴らしい…!
 
 
 
 
そして東京だと、大江戸線飯田橋駅に行くたびに、ここでもアルファヴィルは撮れる!と思う。モノトーンの洋服着たアンナ・カリーナが今にも歩いて来そう。

2015-01-12

Cinema trip planning

 
 
 
 
1月3日、日光に行った。はじめての日光。東照宮は猿や猫など動物モチーフが可愛いほかはひどく悪趣味だと思ったけど、凍えながら見た華厳の滝は紅葉の時期にいつか再訪したいな、と思った。湯葉料理を食べ、お土産に金箔入りカステラを買った。
 
 
 
 
2015年初雪は新年3日で。寒いとは聞いてたけどピンとこず装備に頭がまわってなかったので足元が脆弱。こんな山の中腹まで電車とバスを乗り継ぎ、Suica1枚で来ることができて驚き。ペンギンの営業力よ…。
 
 
東京は映画祭がひとつ去ると新たな映画祭が間近に発生してる映画銀座で、もろもろの合間にそういう場所にひょこひょこ行ってるだけで幸福度が上昇するけど、山手線内側でぐるぐるしてるだけだし、気がつけば夏から東京を出ていない。日光、極寒の上に東照宮は悪趣味だけど(何度も言う)、雪山の空気が美味しく、山肌を眺めていると「妻は告白する」はどこで撮影したのだろう…など想像をめぐらすことも可能だったので、今年はあちこち行きたい。映画がらみの旅ならなお良い。
 
 
今とりかかっていることが終わったら(…5月?)行ってみたい候補は、新潟。映画館の歴史について書かれた本を読んでいて、日本にあまり古い映画館が残っていないのは家屋も長持ちしないし、災害も多いしという環境要因もあるのだろうか…と思っていたのだけど、新潟に日本最古級の映画館があって、なんと現役ということを知った。高田世界館、という名前もいい。その頃には何か上映イベントがありますように…。
 
 
昨日「FORMA」のサイトを見ていて、立誠シネマでも上映があり監督が登壇したと書いてあった。京都、木屋町あたり、高瀬川沿いの立誠小学校が廃校になった跡を利用しているらしい。大学の頃、ここの校庭でファッションショーのような何かを観た記憶があるけど、あの頃すでに閉校していたのだな。便利な場所にあるし、活発に上映してるし、ここで何かを観るのは難しいことではなさそう。
 
 
 
京都、通ってた映画館はずいぶんなくなったみたいだけど、みなみ会館がリニューアルしてずいぶん雰囲気が変わったようなので、そちらも行ってみたい。

 

2015-01-11

FORMA

 
 
アップリンク、見逃していた映画特集で坂本あゆみ監督「FORMA」を観る。見逃した理由は、公開当時ほかに観るものがあったから、ポスターを見かけたけどどんな映画か想像できずざっくりでも調べる余裕がなかったから…等に加えて、女性監督に苦手意識があるから。だったのだけど、これはほんま見逃したらあかんやつやったわ。アップリンク、ありがとう。145分と長い映画だけどスクリーンを凝視して動けなくなり、持ってた韃靼そば茶を飲む隙間もなく、エンドロールでようやく喉の渇きを覚えた。帰り道は「……!(すごい人発見しちゃった)……(すごいもん観ちゃった)」という思いで頭いっぱい。
 
 
 
見終わって、ポスターのあれ何だったんだろう?って思い返してようやく、あ、冒頭のアレね。と。「145分のアンチテーゼ」
 
 
 
ポスターから伺い知れなかった中身はこんな感じで、高校時代、テニス部で一緒だった女2人が、何年ものブランクを経て再会する。 髪の短いのが綾子、長いのが由香里。テニス部では由香里がリーダーだったけど、再会すると由香里は工事現場の誘導アルバイトをしており、一方、綾子は化粧品会社で主任になっていた。いつまでもアルバイトしてられないでしょ、と心配したふうに、綾子は由香里を自分の部下として会社に迎え入れ、高校時代と上下関係が逆転する。父親と2人暮らしの綾子。母親の不在は語られない理由があるらしい。由香里は婚約者がいる。2人の間にある過去、憎悪が徐々に明るみになっていく…。
 
 
音楽も一切なく、映画用の照明もあてられず、家庭用ホームビデオで撮ったかのような質感で進んでいく。カフェでの2人の会話が別の席の客の会話の向こうにあって聞き取りづらかったり、カメラが登場人物たちに近寄らず表情が見えにくかったり、不自然なところでカットされたり、不穏さを残したまま進み、後半で伏線はすべて回収される。よくできた脚本だなぁ。ところどころ長回しがあり、ラスト近くの長回しは24分ワンカットらしいのだけど、部屋の或る場所に置かれた固定カメラから撮っており、起こってるらしい何かはほとんど、段ボールの向こうにあった。ルビッチの扉の演出みたい…。
 
 
ここのところ「紙の月」に「ゴーン・ガール」、そしてこの映画。女をどう描くかという映画ばかり観ている気がして、描き方もそれぞれだなぁと思うのだけど、「紙の月」を観た後の消化不良感を抱えながら、いろんな感想に(特に男性が)「女って怖い」「衝撃的」などと書いてあるのを読むと、あれのどこが衝撃的なのだろう。事件に手を染めるかは別として、あんな女、わりといると思うけど?と鼻白む思いだったのが、「ゴーン・ガール」で胸のすく思いを味わい、「FORMA」でとどめを刺した感じ(何に?)。女である自分が当事者として立ち会う、女の嫌な部分だけ煮詰めたジャムみたい。よくできたフィクションだけど、2人のセリフ、表情は確かに聞き覚え見覚えのある女くさいそれだし、私もこういうこと日々言われてる気がするなぁと思うし、私自身もこういうこと言う時こんな表情なのだろうか。とゾッとした。
 
 
残酷だな。と思ったのは、2人の見た目。造形やファッション。映画は作り物なのだから、誰に何を着せるか、どんな髪型にするかも監督の思いなのだ。と考えると、こんな性格の女は、こんな洋服は着ないんじゃないかな?と、むず痒く思うことはよくあるけど、この映画では一切なかった。2人とも見た目に凝るタイプではなく、高いものも身につけていない。バナー広告でよく出てくる「アシンメトリーなトップスが1980円!」みたいな、ぴらっとした洋服に見えるし、シーズンごとに何かを買う。という態度でもなく、必要になった時に駅ビルのセールで買います、といった感じ。
 
 
暗い憎悪を長年たぎらせてきた綾子は露出度が低く、化粧気も少なく、後になって思うに、あれは男性への嫌悪感からくるのだろうか。一重瞼の女優は表情の少ない演技で、考えていることが外から見えづらい。対して由香里は髪は長く、派手ではないけどくっきりした美人で、オフィスでは地味にしてるけど、デートの時はニットワンピースにタイツ。グラビアの人々は何故よくニットワンピースを着ているのだろう…と、ふと考えたことがあって、ほどよく身体のラインを拾い、ワンピースであることで女性らしさもあり(単純!)、なおかつ脱がせやすそう。というのがいいのだろうな、と思ったりしたのだけど、由香里のニットワンピースは、グラビアのニットワンピースと同じ理由で着せているに違いない!と勝手に思った。あるいは婚約者の好みなのかも。2人とも洋服に頓着せず、おしゃれではないけど、明確に違いがある。ということをうまく見せる確信犯的なキャラクター造形だなぁ…と唸った。女性監督ならではの細かい残酷さ…。
 
 
女性監督に苦手意識があるのは、これまでたまたま観た映画が、やたら女性性を謳う!みたいなものが多かった気がして、そんなに主張しなくてもあなたが女だって誰でもわかるよ。ってウンザリした気分になることが多かったからなのだけど、女性にもいろんなタイプの人がいる。ということは、私もよくわかっているのだから、女性というだけで敬遠してはいけない。ということを、見逃していた「FORMA」の衝撃で、反省した。坂本あゆみ監督は、塚本晋也監督に憧れて映画の世界に入り、塚本監督のスタッフとして何本も作品に関わってきたとのこと。この映画がデビュー作で、ベルリン映画祭でいきなり賞を獲った。今年はまだ始まったばかりだけど、去年これを観ていたらBest10には必ず入るし、周りの人にも吹聴してまわったはず。「FORMA」を撮って、次は何を撮るのだろう。次回作があるのなら、次は初日に駆けつけたい。

 

 

2015-01-10

Monroe sings

 
 
図書館に返すものを部屋じゅうからピックアップしていて、借りて聴いてなかったレコードがあったのを思い出す。モンローのレコード。A面は「紳士は金髪がお好き」から5曲、B面は「かつて発売されたことのない曲や、別テイクがいくつか」で7曲。発売された81年当時はB面収録曲のレアさが売りだったようなのだけど、30年以上経ってみると検索すればあっという間にヒットするものばかりなのだろうな。
 
 
借りたのは最後にJFKの誕生日に歌ったことで有名な「HAPPY BIRTHDAY MR. PRESIDENT」が入ってたから。自分の誕生日にかけようかな、と思ってたけど、当日はバタバタしてすっかり忘れていた。周囲にとっても本人にとっても慌しい日に生まれたものだな…。
 
レコード袋も文京区図書館オリジナル!
 
 
部屋にいて何か書いたり調べたりするテーブル&椅子の背後に本棚があり、その上にレコードプレイヤーを配置したので、レコードの音の、そこで誰かが歌ったり弾いたりしてるかのような親密さで、今、背後でモンローが歌ってる。振り向けばそこにいるかのように。
 
 
そんな近くでモンローが歌う「HAPPY BIRTHDAY MR.PRESIDENT」は43秒しかないものの、鷲掴みで理性を奪って持ち去ってしまうような破壊力だった。よく知らないままに、この2人のことはきっと公然の秘密として扱われていたのだろう、と思っていたけれど、親密な写真が何枚も残っていることを最近知った。一国の大統領が、脇が甘すぎるのではなかろうか…。
 
 
 
年末からクラシック映画に古い曲ばかり聴いて(レコードで聴くので、どれも古い…)、文化の成熟は60年代で終わったのだ、しょうがあるまい。など思ってもないことを言いそうになるので、夜になったら最近の映画を観に行こう。