ギンレイホールで。「アデル、ブルーは熱い色」(原題 La vie d'Adèle – Chapitres 1 et 2)、2013年秋の東京国際映画祭クロージング作品だったはずで、公開に先駆けて観た。
アブデラティフ・ケシシュ 監督はその際も挨拶され、翌々日ぐらい?にアンスティテュ・フランセで過去作「クスクス粒の秘密」の上映後のティーチインにも登壇された。哲学者のような佇まい。ティーチインの前には、北鎌倉へ小津監督の墓参りに行かれたとのこと。
フランスの高校生・アデル(アデル・エグザルホプロス )が、青い髪の女・エマ(レア・セドゥ )に出会い激しい恋が始まって・・・という物語。女同士の激しい性描写があることで、日本ではR-18指定。観終わった後、ぼうっとして、公開されたらまた観に行こうと思っていたのだけど、公開時は逃した。そして、ギンレイホール、R指定のある映画があまりかからない印象だったので、この映画が映されることに驚いた。年配の常連さんも多い映画館なのに、大丈夫かしら・・と思ってたけど杞憂だったようで。そういうシーンが終わるとおもむろにトイレに立つおじさんなどいて、年を取るってすごい!って妙に感心した。
女優2人とも素晴らしかったのだけど(カンヌでは初めて、作品に加えて女優2人にもパルム・ドールが贈られた)、知名度の高いレア・セドゥのチャレンジも天晴れながら、観終わって時間が経つごとに、アデル・エグザルホプロスの映画だったね。という実感が増してきて、2度目の今回は、アデルばかり目で追った。
邦題もそうだけど、原題 La vie d'Adèle は「アデルの人生」、まさにアデルが中心にいる話。人生といっても、10代の終わりから数年間の短い間だけども。文学が好きだというアデルが、リセの文学の授業は真剣に聞いているのがわかるし、学生たちが暗唱し読み上げるフランス文学の一節は、そのままアデルの心象や今後の展開を予言するようなものが選ばれている。
だらしない寝相で寝るアデル、父親の作ったボロネーゼをおかわりして食べてナイフについた肉まで舐めるアデル、「いつも何か食べてるの、お腹が空いていない時でさえも」と、確かにアデルはベッドで泣きながら、ベッドの下からお菓子ボックスを出して泣きながらチョコパイを食べていた。恋においては声をかけられた同級生の男としばしつきあってみるも、何か違うとすぐに別れてしまう。何が違ったのかは、街で見つけた青い髪のエマに惹かれることでアデルも観客も知ることとなる。
アデルは欲望を満たすことに貪欲で、見切り発車でもあれこれ試し、違うと思えば手放す。もちろん手放すことに傷はつきもので、そのたびに顔じゅうで泣きながら。満たされた気持ちでいても、おいしそうなものが脇から登場すればそれにも躊躇なく手を伸ばす。頭で考えることを身に着ける一歩手前の、原始的な姿を見せつけられているようで、それでいて野生動物がひどく優雅なのにも似て、愚かには見えない。
その人の真ん中に、きちんと、その人がいる。アデルは恋に出会う前からそういう女の子で、恋によってますます強化された。結末はアデルとエマ、それぞれ愛に求めるものがズレていってしまったけれど、アーティストとして生きるエマにとっては、アデルの存在は脅威だったのかもしれず、距離を置くしか大切に思う方法がなかったのかもしれない。アデルは迷いなく地に足のついた道を選んでるけど、もしかするとアーティストに向くのはエマよりアデルのような人で、エマはそれをわかってたのではないか。
ケシシュはアデル・エグザルホプロスに出会って、主人公の名前が原作ではクレモンティーヌだったのを、あえて女優と同じ「アデル」にしたらしい。どれほどの撮影期間だったのか、どのような順番で撮ったのか知らないけれど、冒頭のアデルに比べて、最後のアデルは、内側で大変動が起きてしまった人の、多様な表情を身に着けていた。アデル・エグザルホプロスは確かにアデルを生きたのだな。
レンタルされているDVDは、長いラブシーンがいくつかカットされているって本当かしら。「カットしても、物語の大筋には影響ない」なんて誰がどんな権利で判断するのだろう。この映画のラブシーンは、長くて激しいことにきちんと意味があるのだ。ラブシーン抜きの「アデル、ブルーは熱い色」は、もはや「アデル、ブルーは熱い色」に似た別の映画に過ぎない。
3時間近くの長さを感じさせない映画だけど、観終わると、とてもお腹が空く。アデルがずっと何か食べてるせいもあるのだけど。丸ごと生きてる人を観てるだけでも、お腹って空くんだな。