「猟銃」、パルコ劇場で上演されていたものを見逃し、ふと調べてみると、京都を発つ日が京都初日、観終わった後でも新幹線最終には間に合い、チケットもまだあるらしい。観ない理由がなくなった。昨夜、岡崎のロームシアターで。
井上靖の原作を、カナダの演出家フランソワ・ジラールが演出。不倫した男をめぐる3人の女、愛人の娘、妻、愛人による3通の長い手紙で構成される原作に忠実な戯曲。舞台の上には男を演じる俳優がいるものの、後方で静かに動くだけで言葉を発しない。そして主演・中谷美紀が3人の女を1人で演じる。1時間40分の間、一度も舞台から去らず、衣装と声色を変え演じ分けていく。沈黙の時間は多くなく、ほとんどの時間、台詞を喋り続ける。
映画に比べると舞台を観た回数は少ないけど、これまでの観劇経験で間違いなく最高だった。照明は暗く、表情の変化は完全には捉えられなかったけれど、語りと動き、ミニマムながら摩訶不思議な舞台装置のわずかな変化、音を捉えながら、ささやかな、けれど生死を揺るがすほどの激しい愛の物語に前のめりで没頭しながら、それらがたった1人の女優によって伝えられていることに最後まで驚くほかになかった。
扇情的な赤いドレスで、愛のない結婚生活に退屈し放蕩生活を送る妻は、高慢な口調の隅々に愛されぬ口惜しさを存分に漂わせ、振り返れば彼女だけがあの男を愛していたのだと思う。髪を振り乱して妻がひとしきり叫んだ後、すっと魂が抜けるように最後の一役、愛人に替わり、赤いドレスを脱ぎスリップ1枚になった身体に襦袢を纏い、腰紐で身体を締め付け、着物姿をゆっくりした動作で完成させていく動きは舞踏のようだった。その間、すっと正面を向いたまま台詞を放ち続ける。着物も帯もそのまま死装束を連想させる白で、かろうじて身体だけこの世にいるものの、魂はすでにあちらに旅立ってしまったような朧げな立ち姿から、最後の秘密が打ち明けられた。
演技も演出も非の打ち所がないものながら、原作の強さを感じる。原作を予習して来なくて正解。長さはあるものの、物語はとてもシンプルで登場人物も要素も少ない。物語の鍵になる華やかな羽織が、衣装として登場しないのも想像の余白を残しており良かった。何故、カナダの演出家がこの小説を選んだのかな?と思えば、翻訳版があり、いつか舞台にしたいと考えていたらしい。最後の愛人の表現が最も好きだけど、どの役も全く違う女がそこにいて、灯りがついて何度かカーテンコールで登場した時だけ、テレビや映画で見慣れた中谷美紀の雰囲気だった。今回は再演で、数年前の初演の際、最初にオファーされた段階では、3役のうち誰を演じたいか、という問いかけがあったのを、どの女性も魅力的で選べない、3人とも演じてはいけないか?と問い返して一人芝居の形式にすることが決まったそう。それまで舞台に一度も立ったことがなく、初舞台で一人芝居。大胆ながら、この物語は一人芝居が似合う。3人の女、誰の中にも誰もがいるし、女を構成する成分が分散して3人を象っていた。私は、誰の気持ちもわかる、と思いながら観た。
観終わると急いで京都駅に向かい、のぞみの車中で原作を注文した。きっといくつになってもそれぞれの年齢ならではの新たな魅力を加えていける物語だと思うので、これから何度も再演して欲しい。次があれば、もっと前の席で観られるように万全の体制でチケットをとろう。志の高いものを観た後にだけある、自分も自分の領域であれぐらい頑張ろうという感情が湧いた。
そしてつらつら考えたことに、原作が発表されたのが1949年、その後の日本映画の華やかな時代に、こんなよくできた物語を当時の映画会社が放っておくとも思えない。脳内キャスティング。岡田茉莉子はきっと必ずキャスティングされてて妻か愛人、どちらか、どちらでもいけるけど妻かな。と調べてみたら、やはり映画化されていた。大映を想定していたけど、意外なことに松竹。
「猟銃」映画版は1961年の映画。監督は五所平之助。
気になるキャスティングは…不倫する男に佐分利信、愛人に山本富士子、妻に岡田茉莉子(当たり!)、愛人の娘は鰐淵晴子、愛人の元夫は佐田啓二。 おおお。なんてイメージ通り。そしてこの頃の俳優陣は本当に層が厚い。佐分利信というのが松竹らしくていい。大映だったら不倫する男に田宮二郎、愛人に若尾文子、妻に岡田茉莉子、娘は保留、愛人の元夫は船越英二なんてどうかしら。そして監督が増村だったら、だいぶ濃い…「不信のとき」ばりのハイカロリー映画になりそう。
「猟銃」が名画座にかかった記憶がないのだけど、知らないだけで時々かかっているのかもしれない。観たいな、と思ったらyoutubeに全部あった。恐ろしい時代…。ひとまず原作が届いたら読み、舞台の記憶をもう一度ぎゅっと抱きしめ、その後で意を決して映画を観ようかな。