CINEMA STUDIO28

2016-05-22

Victoria... encore!

 
 
本日の映画/映画館。去年の東京国際映画祭で観て、去年のBest5にも選んだドイツ映画「ヴィクトリア」、ロードショーで友達を誘って再見することに。早めにチケット購入し、長い待ち時間ぷらぷら歩いて明治通り沿いのレフェクトワールへ。摂取するといまいち身体に合わない小麦ものだけど、プチメック系列のパンだけは美味しく食べられるのは何故…材料が合うのだろうか。明日のランチ用にサンドウィッチもテイクアウト。
 
 
「ヴィクトリア」の特徴は何といっても140分ワンカット映画であることで、初見では案の定ワンカットに大興奮、あのシーンもあのシーンも全てが繋がっているのだわ…カメラも凄いが俳優たちも…と、製法に圧倒されたのだけど、2度目ともなればその方面の興奮は鎮まり、筋書きもシンプルで覚えており、そしてやっぱり素晴らしい140分だった。冷静になった分、時間配分に目がとまる。撮影上の制約なのか銀行強盗のシーンは省略され車で待つヴィクトリアが映されていたり、2度目のクラブのシーンや屋上での5人の会話シーンが無駄に長く感じられたり。引き伸ばされた時間と省略された時間のバランス。
 
 
タランティーノ「デス・プルーフinグラインドハウス」は後半のカーアクションシーンの痛快さのために前半はくだらないガールズトークが延々と続き、たわいのないセリフのひとつひとつが物語を煽動するためではなくキャラクターに肉付けするために機能していることに興奮したのだけど、「ヴィクトアリア」にも似た時間配分の緩急があった。このところ長い映画が増えているせいか、映画に流れる時間って何なのだろう…と、その映画がその時間、長さであった理由について考えることも増えている。
 
 
精緻に配分された140分のうち、ホテルに入った後の十数分が最も好きで、ヴィクトリアが泣いた後、すっと表情を変える数秒を確認するために、2度目を観たと思う。3度目があってもあの数秒のために観るだろう。
 
 
去っていくヴィクトリアの背中のショットから暗転してエンドロールが流れ、最初に表示された名前が撮影監督、ということは2度目で気づいた。撮影監督こそ最初に表示されるべき。そしてキャスティング担当は、キャスティングディレクターとは別に casting "Victoria”というスタッフが表示されたのが特徴的。その人がヴィクトリア役の女優を見つけてきた、ということかな。映画への多大なる貢献。一緒に観た友達は、やはりワンショットに衝撃を受けていた。そして「男たちが本当に、男たちよ…という描かれ方」「赤ちゃんのいる家庭に押し入る場面。ヴィクトリアが冷静に説得するそばで、興奮した男が銃を振りかざして威嚇して…まったくもう、落ち着いて。って感じよね」など、ぶつぶつ話しながら帰路についた。