岩波ホールで。マノエル・ド・オリヴェイラ監督「家族の灯り」堪能。オリヴェイラの映画は常に呆気にとられる自分を楽しみに観るふしがある。この映画も然り。
或る貧しい夫婦と、息子の妻。息子は長らく不在らしい。そのせいで母親はずっと泣き続け、父親には諦念が漂う。家庭にはたくさんの秘密があるらしい。そこに息子がついに帰ってきて…。家族の物語だけどサスペンスみたい。って思ったものの、家族の物語ほどサスペンスなものはないね、いつも。
とにかく役者が豪華。クラウディア・カルディナーレ、ジャンヌ・モローは、往年のファンは彼女たちがこのように年を重ねることを予想していただろうか?という見た目(2人とも美しく味がある)で、同席するのはマイケル・ロンズデールに、オリヴェイラ映画には必ず登場するルイス・ミゲル・シントラ。この4人に珈琲をついでまわる息子の妻にレオノール・シルヴェイラ!お腹いっぱい。そしてこのキャストをコントロールできるのはオリヴェイラぐらいなものだろう。帰ってきた息子は「ブロンド少女は過激に美しく」で主役だった彼、リカルド・トレパ。リカルド・トレパはオリヴェイラの実の孫。あまりに濃い他のキャストに混じると彼の演技は未熟に思えるのだけど、この映画ではその未熟さがとても役立っていた。周囲から浮かなければならない役なのである。
待ち焦がれた息子の帰還。お涙頂戴と思われたその帰還は、あっさり裏切られ、徐々に息子が聞入者にしか見えなくなっていく。ようやく揃った家族の秩序が狂い始める。雨の夜に老いた男女がテーブルにつく場面の会話は、誰もが誰の話も聞いていないようでスリリングだし、冒頭から状況説明の台詞があちこちに差し込まれ、映画というより舞台を至近距離で眺めてるよう。もともとは四幕ものの戯曲だったものを三幕までで映画にしたものらしい。映画にならなかった最後の一幕が気になる…。
ほとんどが夜の場面で、雨が降っており、貧しい家の灯り、絶望した息子の妻が見上げた街灯に照らされるマリア像など、映画を通じてルーベンスやフェルメールの絵を観ているみたいな恐ろしく統制された色彩と光。闇に見慣れた目には、最後の光はとても眩しかった。
思い違いでなければ、冒頭の数分、レオノール・シルヴェイラのみの場面では、彼女はポルトガル語を話していたのではないか。その後、1人から2人の場面になった途端、言葉はフランス語に切り替わった。他の登場人物は皆、日常で話し慣れたといった風情のフランス語を話すのに対し、戻ってきた息子のフランス語がたどたどしいのは、役者の言語能力なのだろうか、それとも演出なのだろうか。全篇フランス語の映画であれば気にならなかったことかもしれないけど、冒頭一瞬だけ他の言語が聞こえたことで、彼らが、家族もしくは親しい人達と会話をするために、わざわざ母国語ではない言語を共通語として選択した人々のように見えた。帰ってきた息子のフランス語のたどたどしさは、そうやって他人と会話するために他の言語を話す機会が長らくなかった故にも思えた。
以前、「その街のこども」という阪神大震災のずっと後、神戸を離れて暮らすかつてこどもだった男女が神戸に戻って一晩神戸を歩く映画を観たとき、男のほうは完璧な関西弁を話すのに、女のほうはイントネーションがおかしく、かといって全く関西弁の体感がない人が話す関西弁でもなく、かつてその土地にいたけれど長らく離れてしまって、いざ話そうとするとイントネーションがところどころ不自然になってしまう人の話し方だったので、これは女優の演技力の問題なのか、それとも演出なのだろうか、と考えたことを、この映画のフランス語を聴いていて思い出した。
マノエル・ド・オリヴェイラは現在105歳、世界最高齢の映画監督で、この映画は103歳の時のものだという。殆どがひとつの室内で撮られているのは、もしかして監督の体力問題なのかな?と思ったりもしたけれども、そんな邪推も含め、オリヴェイラの映画でしか得られない映画体験は確実にある。初めてオリヴェイラの魅力に気づいたとき、自分はずいぶん大人になったのだな、と悟った。長らく映画を観ているけれども、若い時にはオリヴェイラの映画はまるで響かなかっただろう。そしておそらく現在ですらもオリヴェイラの映画をちゃんと理解できているとは到底思えない。1世紀以上を生きた人には、なるほど世界はこのように見えるのかもしれない、という映画群。オリヴェイラの新作を毎年心待ちにしていられるって、本当に贅沢なことだなぁ。