東京に戻ったら、ホン・サンス監督の新作、2本同時に公開された。さっそく見に行ったら、過去作のフィルムでできたしおりをいただいた。うれしい。これはきっと「ハハハ」の一場面だと思う。
映画の感想は後ほど…。って最近まるで映画や本について書ける頭のテンションではない…。
去年「3人のアンヌ」が公開された時のインタビューが、ここ数年読んだあらゆるインタビューの中で最も響くものだった。何度も読み返したいので、記録しておく。
特に最後のページ。
「全てのものに意味がない、理由がないというのは、私の考えからきていることだと思うのですが、意味や理由はなくても、必要性は理解します。人間が生きていく上で意味は必要です。それはたとえば意味であるとか、本質、あるいは確信、メッセージ、そういうものは生きていく必然として必要だと思うのです。でもそれと同時に、全てをそれで表現することはできないと思うんです。たとえば記者の人がある女性を好きだとしますね。横から友人が、なぜ彼女のことを好きなのと聞かれても、あなたは彼女がこれこれこうだから好きだという風に答えたとします。でもあなたが家に帰ってからよく考えてみると、自分の言った理由が嘘だと気づくと思うんですね。なぜか。それは単に好きだから。理由もなく好きなんだけど、そのことは家に帰って考えてみたら気づくことだと思う。でも必要性ということから考えれば、その友人から聞かれた時にこの女性はこれこれこういう理由で好きなんだ、私にはこういう好きな彼女がいるんだと紹介する必要性があるわけですよね。自分はこれこれこういう理由であなたが好きだという、そういうことを本当に信じていたとすれば、たぶんそれは後々になってそのことが理由となって2人の間がうまくいかなくなる可能性もあるということだと思うのです。」
この最後の「自分はこれこれこういう理由で…」のくだりは、ほぼ私の恋愛観(のようなものが、あるとすれば)と一致するなぁ。
あと、ラストの
「個人的に自分は幸せになりたいと思いますが、それでもなかなか幸せになることはできない、それは世の中の人があらかじめ準備している手段であるとか道具を用いても自分はなかなか幸せになれない。でもそれを映画の中でどのように(なれるかということです)。普通のエンターテイメントの映画であっても、その中に込められているものがありますよね。イデオロギーであったり、社会的なものだったり。あるいはもっと言えば、我々がこういう風に生きれば幸福になれますよというメッセージが込められていると思うんです。でもよく考えてみると、私たちはそういう映画の中のメッセージを使っても、なかなか幸福になれないじゃないですか(笑)。映画の中に込められているメッセージ、あるいは世の中にあらかじめ準備されている色んな生き方を通じても幸福になれない。私たちは幸福になりたいけれどもなれないという、そんなもどかしさを感じているわけですが、私は新しく別のシステムを作りたいわけでも、何か別のシステムを提示したいわけでもないんですね。ただそういうもどかしさに気づいてほしい。いや、気づくだけでも十分だと思うんです(笑)。」
というくだり。私がホン・サンスの映画を見ている時の安心感というか、作品が自分との間に保ってくれる距離のようなもの、言い換えれば品の良さ、みたいなものかもしれないけど、そういうものの源泉がこの言葉に今のところはあるなぁ。もちろん、作風はどんどん進化していくし、私も変化していくので、ずっと共感できるというわけではないだろうけど。
それにしても、巷に溢れる「何かもっともらしいことを言ってるようで何も言ってない」言葉群の真逆にある、「のらりくらりしてるようで、案外核心ついてる(ようにも読める)」素晴らしいインタビュー!映画の印象と言葉の印象にブレがなくて、ホン・サンスがますます気になった。