CINEMA STUDIO28

2013-12-04

La Sirène du Mississipi



ドヌーヴ特集でトリュフォー「暗くなるまでこの恋を」を観る。


字幕は山田宏一さんによる新訳。豪華!


映画監督の人生、誰かひとり選んで生きることができるなら、トリュフォーの人生を生きたい。幼少期〜思春期までの家庭生活は大変だったけど、それを題材にした長編処女作が大ヒット、過去をきっちり清算し世に出るきっかけにした後は政治も暴力も好きじゃないから恋愛映画しか作らず、主演女優と軒並み恋に落ち、脚フェチだから膝上丈のスカートにミディアムヒールのパンプス履かせて舐めるように撮り、私生活での女との会話もちゃっかりセリフに使っちゃう。最後の女も脚がとても綺麗だからレオタードみたいな衣裳着せて撮るし、俳優には俺は女が好きなんだぁぁぁ、愛に生きるのだぁぁぁって叫ばせて、タイトルはオープニングじゃなくてエンドロールで、えーただいまお届けしましたのは「日曜日が待ち遠しい!」でした、チャンチャン!の背景は幼女の脚が並ぶ青田買いショット。この中で俺好みの脚に成長する娘は誰かなーって。って映画撮ってるうちにあっけなく死んじゃった。なんと見事な男の人生。映画も人生もどこで切っても金太郎飴みたいにトリュフォー。


トリュフォーの言葉で好きなのが「映画とは、過激なまでにパーソナルでなければならない」というもので、私の最近のモットー(映画を人生に置き換えて)でもある。この言葉どおりの映画人生を生きた人だと推測するのだけど、「暗くなるまでこの恋を」も見事にトリュフォー映画。こういう男を許容するならきっとトリュフォー映画も好きだし、そうじゃなければ面白くない人にはまったく面白くないのだろう。


1969年の映画。推理小説を原作にし、尊敬していたヒッチコックタッチのサスペンスに仕立てたい意欲が透けて見えるが、2時間のうち意欲が持続しているのは冒頭30分で、残り90分はそんな意欲はとっくに忘れて愛だの恋だのしか描いていない。「恋愛日記」を観たとき、あまりに眠くて→途中寝て→起きて画面を見たら男が女の脚を追いかけまわし→また寝て→起きて画面を見たら男が女の脚を・・・のエンドレスループ鑑賞になったことがあったけど、これこそトリュフォーの由緒正しい鑑賞法だと信じてる。「暗くなるまでこの恋を」も途中睡魔に襲われたけど、数分ロスしたところで相変わらず愛だの恋だの言ってて鑑賞に何の影響もなかった。


島に住む金持ちの男のもとに、新聞の相手募集欄で知り合い文通しただけの女が嫁いでくる。交換した写真では地味で大人しそうな女だったのが、嫁いできたのは別人物、美しく謎めいたドヌーヴ。謎が物語に適切に機能するのは冒頭30分だけで、残りはベルモンドとドヌーヴの恋の物語なのだが、女の素性が明らかになってからのほうが2人が素直になり、破綻したはずの夫婦が夫婦らしくなっていき、最後30分に至ってはシリアスなはずなのにかけあいが夫婦漫才みたい。1つの映画の中で2人の関係が3段階ほど、まるで違う映画みたいに前後不覚に変化していくのを、遠くでトリュフォーがなんかやってんなーと観てるこちらもダラダラしながら眺めるのが楽しい。ベルモンドも冒頭30分は大人しく、いつものイメージから遠いけど、途中で人を殺して逃亡し始めるあたりから俄然魅力が増してくる。やっぱベルモンドは人を殺して逃げてこそベルモンド。ホテルの壁をよじ登る、やたら運動神経の良いベルモンドも堪能できるサービス精神に満ちた映画。


トリュフォーとドヌーヴはこの映画が初顔合わせで、案の定、撮影中に恋に落ちたと聞くと、本当は緊迫したサスペンスになるはずが、冒頭30分撮ったあたりで恋愛が盛り上がってしまって、作品に滲み出てしまっただけなんじゃないか?と勘ぐってしまう。トリュフォーがつきあい始めたばかりのドブーヴに惹かれる自分をうまくコントロールできておらず、途中から呆然と美しさを讃えるしかできなくなって映画としての混乱やドヌーヴの役のキャラクター造形の破綻に繋がっているように見える。「愛は苦しいもの?」「そう、愛は苦しい」「でも、きのうは歓びだと…」「愛は歓びであるとともに苦しみだ」って後に「終電車」でも再現されるセリフ、これ私生活できっとトリュフォー言ったね・・?


トリュフォーがヌーヴェルヴァーグっぽいのはフィルモグラフィの前半だけで、この映画前後から一気にヌーヴェルヴァーグ以前のフランス映画の正調、メロドラマ調・・「肉体の悪魔」とか「居酒屋」とか「望郷」とか・・ああいう風になっていく。私はメロメロしてる後半のトリュフォーのほうが素直に本領発揮してて好きだな。