CINEMA STUDIO28

2016-04-07

2016/4/7

 
 
「永い言い訳」を読み終え、さっと次の本を手に取り往復の電車で読み始めた。読書が捗る理由はなんとなくわかっていて、web上の文章を読むことが減ったから。特にSNS。紙のページをめくっていると、ああ、編集された、本人以外の何人かの目を通過して世に出された文章…いいなぁ…と、うっとり。
 
 
今読んでいるのは穂村弘さんと川上未映子さんの共著「たましいのふたりごと」。2人+編集部がそれぞれ出し合った78のキーワードについての対談集。
 
 
「人たらし」という言葉について語られる箇所。穂村弘さんが「たとえば相手が演劇をやっていて、観た作品がたまたまつまらなかった場合、自分の率直な感想を優先するか関係性を優先するかで緊張するよね。良かったときに良かったよというのはいいんだけど、そうすると良くなかったときにどうするんだという問題が生じる。正直に言えるかどうか。」「すべて率直に言えるのがいいと思うけど、その緊張感に耐えられないので、どんどん回避していくと限りなく人たらし的な対応に近くなる」と発言しているのを読み、あ、私、これ、身に覚えがある。
 
 
ずいぶん前、友人が制作している演劇を観に行き、「他所の大学の学園祭に遊びに行ったら友達にばったり合って、ノルマ的にチケットを売ってたから1枚買ってみて連れられて行った場所でやってたような芝居だった」「つまらなくはないけど、面白くもない。そう考えると、つまらないと面白いの間には案外、距離があるのだな、と思った」って感想を書いたら、読んだ友人から「感想、書いてたねぇ」と渋めの顔で言われた。辛辣な感想、書いてたねぇ。の略なのだな、と思ったけど、好き勝手書いちゃってごめんなさいね、とは思わなかったので、穂村弘的に言えば私の対応はまったく人たらし的ではない。その後を読み進めていると、穂村さんは波風を立てること、争いごとが苦手な人のようで、好戦的な川上さんとは対照的な印象。だからこその「人たらし」の解釈ということか。そして私が思いつく限り、身の回りで最も「人たらし」という言葉が似合う人も、穂村弘的「人たらし」に該当しない。
 
 
ロメールの映画でセリフの洪水を浴びると、よくこんなに喋れるね!ということ以上に、こんなにたくさんの言葉を交わしても、人ってわかりあえずにすれ違っていくのだね!と思うことのほうが多いけれど、この本を読んでいても、言葉に自覚的な人々が差し向かいで言葉を交わしても、それぞれの解釈はまるで違うのだから、わかりあえた、共感した、なんて刹那の幻想であるな。南無南無。という気分でページをめくっている。
 
 
 
昨今観た映画の中で、最も「人たらし」的キャラクターは「極楽特急」でハーバート・マーシャル演じるガストン・モネスクだった。しかし思い出してみると、たらされているのは女ばかりで、そんなガストンを男たちは警戒していたから、ただの「女たらし」なのかもしれない。「人たらし」って言葉、難しい。