CINEMA STUDIO28

2015-09-11

The Philadelphia story

 
 
昨夜の映画。シネマヴェーラで「フィラデルフィア物語」、1940年。キャサリン・ヘップバーンをめぐって元夫、婚約者、記者の想いが入り乱れる。キャストは豪華、監督はジョージ・キューカー、どうしてこれまで見逃していたのだろう?と、観終わったら思うのかな…と、傑作の香りがしたのだけどそうではなかった。
 
 
上流階級の娘、キャサリン・ヘップバーンは当時の女性においては進歩的なキャラクターで、男の征服欲を掻き立てる女…という設定らしい。というのは、1人の男が、男の征服欲を掻き立てる女だ、と語ったから。私には情緒不安定で、キャサリン・ヘップバーンの見た目のイメージにも合っていないように思えたので、この女性のことをどう捉えればいいのだろう…と戸惑ってるうちに終わった。人物造形をセリフで語り、それが「ウィットに富んでいる風」のセリフのために必要以上にひっかかって頭にうまく入らず、最後まで男たちの名前と顔を一致させるのが難しかった。ジョージ…誰?元夫だっけ…?それとも父親?といったような。
 
 
これはきっと舞台の映画化に違いない、と調べてみたら実際そうで、ミュージカルの映画化、後に「上流階級」というタイトルでミュージカル映画としてリメイクされたらしいので、そちらのほうを観てみたい。「フィラデルフィア物語」がセリフで語り過ぎた分を音楽や踊りに分散させるとすっきりするのではないかしら。あ、年の離れた妹役の子役のこまっしゃくれた感じは良かった。成長してグレてなければいいな…と願わせる存在感の子役だった。キャサリン・ヘップバーンはドレスよりパンツのほうが断然似合う。
 
 
しかし、せっかくの「映画」であるのに、確かに言葉は大事だけれども、物語を言葉にばかり牽引させる映画にもはや耐性が低い。「上海から来た女」なんて、編集でズタズタにされたせいで物語の繋ぎが荒く、観たばかりの今ですら説明するのは難しいけど、後半の視覚的面白さはそんなことを補って余りあるものだった。なんて「映画」なのだろう。と、うっとり。
 
 
こう考えるのには理由があって、今年きっとルビッチを浴びるように観たからなのだろう。トリュフォーがルビッチについて語ったこの言葉、私も「ルビッチならどうする?」という気分の時に、なんとなく反芻している。
 
 
ルビッチのやり方というのは、物事に遠回しに近づいていくというやり方です。あるシチュエーションを観客に理解させなければならないときに、どうやったらいちばん間接的な、いちばん手の込んだやり方でそれが出来るのだろうか、と考えをめぐらせるわけです。」