あと少しで終わるだろうので2度目を観てきた。ブレッソン「やさしい女」、2度目を観終わってすぐまた3度目を観たくなっているけど、このあたりで打ち止めにすべきか。名画座にまわることがあるならば、また観るだろうな。台詞は少ないながら、音や視線を聴き逃すまい見逃がすまいと追っていると全身フル稼働で、短い映画ながら終わるとぐったりしている。
最初に観てわからなかったところは原作である程度補完したので、見えなかった細部が前よりはよく見えたけど、どれだけ観ても終わらないように思う。キリがない。2度観て、間に原作も読んだ今、この物語が「やさしい女」という名前を持つことを、考えている。
「白夜」しかり、ブレッソン映画の衣装はさりげないようでよく考えられているように思えて、どの衣装も何年もその人が着て洗って干してまた着てを繰り返したように見える。ドミニク・サンダが何度も着る白いカットレースのブラウスはあきらかにサイズが合っておらず、16歳に見えた、と振り返られる彼女がもっと幼い頃から着ていた1枚かもしれず、身体が大きくなっても新しい洋服が買えなかったのかもしれない境遇や、はちきれそうな釦から覗く肌の若さや、窮屈な洋服に押し込められた身体が結婚後の心境を表してるようにも思えて、ブラウス1枚とってもあれやこれやを妄想する。
物語が進むにつれて、つまり結婚生活が長引くにつれて顔色は青ざめていき、青ざめた肌と髪の境界は絵画を連想させ、目には自立の光がちらつきはじめ、あらゆる背反をはらんだ姿形が、物語が進むにつれて爛々と凄みを増していく。年端もいかない女が、素手で戦場に放たれたような物語なのだからしょうがない。殺すか殺されるか、もはや戦争映画の変種。
夫婦が観劇するハムレットの、わざわざその場面を取り出しましたという決闘と毒の場面は、わざわざその台詞を取り出しましたという意味ありげな台詞と、舞台を眺める妻、妻の背中を眺める夫のショットを往復し、その後の朝食のシーンの、妻から夫に渡されるコーヒーの毒々しいこと。
あの時のあの言葉、あの仕草が崩壊のトリガーだったか、と総てのシーンを振り返って検証してみたい欲に駆られるけれど、案外、スープの飲み方が気に入らなかったのかもね。猫舌の、ふーふー冷ましてから飲む、あの飲み方が。