CINEMA STUDIO28

2015-04-16

Woman with a gun





ドストエフスキー「やさしい女」、最後まで辿り着いた。ブレッソンが削ったり置き換えたりした部分がよく見えた。ひとつの物語を、言葉で語るとびっしりした量になるのが、映画で語るとあれだけ寡黙でも伝わるなんて、映画そのものの情報量の多さを思う。


しばらく前、日曜朝にテレビをつけると、最近小説を発表した又吉直樹さんと小説家2人が話している番組がかかっていて、小説家の1人は中村文則さんだった。


あなたの物語の登場人物は暗いのに、あなた本人は明るいですね。と、尋ねたら、中村さんが答えた「オレね、もう暗いことで人に迷惑かけるのやめようと思ったんだよ」 という言葉が、又吉さんに刺さって、座右の銘のようになっている、という話が聴こえてきたので、寝ぼけた頭が覚めた。


「やさしい女」は男の独白で語られる物語で、結婚前、男が妻に語らなかった自分の過去、大きな挫折が結婚後に明るみになる。原作と映画では、挫折の内容は大きく書き換えられているけれど核となる部分は同じで、この男が己の挫折からくるコンプレックスで人に迷惑かけるのはやめようと思うような、最低限の大人の嗜みのある男であれば結末は哀しいものではなかっただろうし、そもそも物語も生まれなかったのだろう。


映画の一場面、自然史博物館で骨を前にしながら、男が「幸せにするよ」と言い、女が「すべてが無理」と答えたあのセリフは、原作にはなかったように思う。それでも何故、女が結婚を決めたのかは映画ではほとんど語られなかったけれど、原作ではしっかり書かれていた。そして「すべてが無理」という女の直感こそ、正しかったのだろうな。直感に従う自由が女になかっただけで。








ドミニク・サンダが身体の後ろで銃を持つ場面の写真を見ながら、去年読んだサマセット・モームの復刻された文庫版の表紙を思い出した。女と銃が登場するだけで物語はずいぶん違うけれど、「やさしい女」「女ごころ」という名前の物語に、銃の鈍い重さがあまりに似合うこと。



原作の手触りが残っている間に、映画の2度目を観に行かなければ。