CINEMA STUDIO28

2014-02-04

Les amours imaginaires



土曜日に、渋谷アップリンクで。グザヴィエ・ドラン監督「胸騒ぎの恋人」を観た。20歳の時の監督作品とのこと。現在24歳のグザヴィエ・ドラン、アンファン・テリブルって言葉は何歳まで使われるのかな。


1人の美しい青年を巡って、親友同士の男、女が恋の火花を散らす…というほど激しくなく、そこはかとなく牽制しあう物語。ポスターも3種類あり(上の画像)、真ん中に2人から想いを寄せられる美青年を配置する並びでアップリンクに貼ってあった。左の短髪の男が、グザヴィエ・ドラン監督本人で、出演している。



女友達と長く続くためには、異性の好みが違うこと。つまり、1人の男をとりあうような展開になる気配がないこと。というのは通説で、確かにそう思う。この映画は、男の好みがぴったり一致してしまう親友同士の悲喜劇であり、親友同士が異性だから話がややこしい。私とあの娘、どっちが好みなの?という問題に、異性と同性どっちが好きなの?という問題も加わり物語は捻れ始める。


中心にいる美しい青年は作為があるのかないのか簡単には判定できないやっかいな種類の魅力を振りまくタイプで、男にも女にも同じ温度、スキンシップの頻度で近づき、一瞬で心を奪っていく。本心が見えないまま、オードリー・ヘップバーンが理想の女性だと言われたなら、彼を想う女はメイクやファッションをオードリー風に整え、男はオードリーのポスターをプレゼント。誕生日パーティーには女は帽子を、男はカシミアのオレンジのニットを準備し、それらを同時に身につけた彼は、無造作な着こなしながらより魅力的に見える。ニットが帽子を、帽子がニットを引き立てあってるのが皮肉だった。罪な男だけど、自然に振る舞っているだけで周囲の人間が何かしら執着してしまう人っている。色気ってそういうことなのかも。もしくは恋する人間の目には、いつも恋の相手は、この物語の罪作りな彼のように、ひとつひとつの言動が思わせぶりで、言葉は謎解きのようにあらゆる解釈を生むように見える、ということなのかもしれない。


好意を寄せられる側、寄せる側の恋の力学が描かれており、客席から俯瞰で眺める私からは恋の結末が簡単に推測できた。感情が邪魔して冷静な判断ができなくなるのは渦中にいる当事者だけ、相手にかける期待の分だけ視界が曇ってしまう。はたして恋の結末は?というサスペンスを楽しむ物語なら途中で飽きたかもしれないけど、片思いの普遍、苦悩と快楽がしっかり描かれていたので最後まで堪能した。





これまで観たグザヴィエ・ドラン、製作順に「マイマザー」「胸騒ぎの恋人」「わたしはロランス」の順で、「胸騒ぎの恋人」が一番好き。新作の公開も楽しみ。 最後に一瞬、ルイ・ガレルが登場して驚いたけど、「胸騒ぎの恋人」の罪な男に顔の系統が似ており、グザヴィエ・ドランの好みのタイプなのかも。鼻が高くてギリシャ彫刻みたいな男が好きなのかな。ルイ・ガレルが降板して「わたしはロランス」の主役はメルヴィル・プポーが登板という流れだったらしいけど、グザヴィエ・ドラン作品でルイ・ガレルを観られる日もそう遠くないのかな。とにかくあらゆる私の好きなフランス語圏の俳優を、グザヴィエ・ドラン映画で観てみたい。


監督は子役からキャリアをスタートさせており、この映画でも見事な存在感。ビジュアルの良さはもちろん、ちらりと画面に写るだけでそちらばかり見てしまうような色気があった。俳優グザヴィエ・ドランが監督グザヴィエ・ドランにキャスティングされ演出されることもまた、ふたつの才能の幸福な出会いなのだろう。