CINEMA STUDIO28

2016-01-26

雪の女王



雪が降ったら観ようかな、と思っていたアニメを先週、東京に雪が降ったので観た。「雪の女王」と言っても、アナと…ではなく、1957年ロシアのアニメ。小規模ながら新訳版が公開されてソフト化もされたのは、宮崎駿が若き日に観て心酔したアニメだから、らしい。


誰にでも好みというものはあるもので、ジブリに詳しくないけど、宮崎駿は、大切なものを守るために裸足で戦う少女が好きなのだなぁ、と思う。仲睦まじい幼い少年少女(恋の香りはするけども、彼らはきっとまだ恋という言葉にすら出会う前のような)、吹雪の日、少年が雪の女王に遠くに連れ去られてしまう。離れ離れになった少年を追って旅する少女のロードムービー。


少女が旅に出るのは春。よそゆきの服を着て、赤い靴を履いて出かけるのは春だから、ということもあるだろうし、好きな少年を探しに行くからお洒落して、ということもあるだろう。小川でひとり船に乗った少女が、履いていた靴をあっさりと川に流してしまう場面が印象的。とっておきの靴のはずなのに、靴を放った川の水面に、少年のところに誘ってねと願掛けしながら、あっさり手放すのだ。旅のはじまりはそんな場面で、靴を吸い込んだ水が波打ち、少女を勢いよく次の場所へ連れて行く神話めいた展開。


道中、裕福な家に立ち寄って雪の道をゆくのにぴったりなふかふかした装いを一式プレゼントされもするけど、山賊の娘にそれを奪われても惜しむそぶりもない少女は、動物の首に縄をかけ、お前たちは私のものよ!と生き物も物のように暴力的に支配していた山賊の娘にも変化をもたらす。そうやって少女の身の上の装身具が減り、増え、また減るのを物語の筋書きよりも興味深く眺めた。私は女がどんどん身ひとつになっていく映画が好きなのだ。


川島雄三「女は二度生まれる」は、囲われていた男にもらった時計をはずし、いよいよ手ぶらになった場面で終わる。スタージェス「パームビーチストーリー」は、夫婦喧嘩の末に身ひとつで家を飛び出した妻が、酔狂な射撃軍団に出会ったり億万長者に求婚されたりした末に夫のもとに戻ってくる。「ヴィクトリア」だってヴィクトリアは最後ほぼ身ひとつになった。彼女たちが持ち物ひとつ手放すたび、内面に変化が訪れる。もしくは内面が動いたから持ち物を手放していく。


「雪の女王」は無垢な愛がつめたいものを溶かす筋書きではあるけども、私には大切なものは物質ではないから、身ひとつでも大丈夫とずいぶん幼くして知っている少女の物語に見えた。


靴を川に流すあの描写だよなぁ!と思っていたら、宮崎駿氏のコメントも…


「そういうのって理屈がないんだよね。これから歩いていくのに、なぜ裸足で行こうとするのか。裸足になるっていうのは必要なんです。主人公はものに守られていたらダメだって。素裸にならなきゃダメだって。どんどん失くしていく。失くしていって、初めてたどり着ける場所や、手に入れられるものがあるんです。」


ロシア語の響きについても触れているけど、 幼い子供が話すロシア語って(変な他意はまったくなく)私の耳には、ちょっと白痴美のような美しさがあるな、と思った。言葉そのものが持っている密度が、少し間延びしているというか、歌のように聴こえて、例えば中国語の持つみっしりした密度と真逆の美しさがあった。




そして雪の女王。2人の無垢な愛の小道具のように使われてるけど、タイトルは私やねんで、と言ってるような。宮崎駿だけじゃなく、小林幸子にも影響を与えたのではないかしら、と年末の風物詩感を漂わせるルックス。


特典で収録されている「鉛の兵隊」も哀しくも美しい愛のお話。「雪の女王」にも「鉛の兵隊」にも、ちょこまか動く小さいおっさんが登場する。「雪の女王」では小さいおっさんは物語の語り部的な役割を担うのだけど、最後に登場して2人は幸せに暮らすでしょう。みなさんも幸せにお過ごしください。と、唐突にこちらの幸せを願ってくれたので意表を突かれた。