根津教会での「聖なる夜の上映会」、今年の映画は「極北の怪異(極北のナヌーク)」、1922年の映画。なのだけど、撮影には何年もかかり1919年に撮影終了したそうで、根津教会が建てられた年と同じ。縁があるのでしょうか…という語りの後に映画は始まった。
素敵なチラシから説明を引用すると、監督はロバート・J・フラハティ。
「ドキュメンタリー映画の父と呼ばれるフラハティがカナダの北極の雪と氷の中で生活するイヌイット、ナヌーク一家を15ヶ月に渡って記録した。失われてしまった伝統を見せるためにやらせの映像もあると言われているが、過酷な自然と共生する家族を捉えた渾身の映像からドキュメンタリー映画という言葉が生まれた。」
ナヌークは名を馳せたイヌイットで、奥さん、子供たち、犬たちと暮らしている。猟のできる場所を転々と移動し、イグルーと呼ばれる雪でできた家を建てながら動いていく。時々、街の市場に収穫を持って行き売ったり(ハスキー犬の仔犬が売れ筋だとか)、猟で日々の食糧を得て氷点下の地帯で暮らす生活は厳しく、それが彼らの生活で、彼らなりの生活の知恵に溢れていた。
道具も全て手作りし、それらを使って動物を狩り、皮を剥ぎ、肉を喰らって生きる。そのシンプルでミニマムでハードなこと。獲物の最上級はアザラシで、皮は皮として使え、脂肪部分は燃料に、肉は栄養豊富なのだそうだ。獲物の生態を熟知し、狩るべき一瞬を見逃さない。
イグルーと呼ばれる家を建てるために、雪の塊を包丁(これも何か動物の牙を使って作ったもの)で切り出し、四角い建材状のものを積み上げ、隙間を雪で埋める。溶けないようにイグルー内部も氷点下を保つ必要があり、眠る時はほとんど裸で家族みんなで皮にくるまれて。あんな寒そうな家で命を保てるのだから、皮を布団がわりにするって、きっと暖かいのだね。着替えの場面のあって、下着の概念はないらしい。靴も素足にブーツを履く。あのブーツはどうやって作ったのだろう。街で買ってきたのかな…?何かの皮のもこもこファーのパンツをみんな履いていて、ファーのジャケットはあっても、ファーのパンツって見たことなかったから、なるほど、暖かそうでいいね、と思った。パンツも膝下丈で、膝下はブーツで覆われている。
狩りの緊迫した場面の傍らで子供たちがきゃいきゃい雪と戯れていたり、ナヌークが子供と遊ぶ時は、ただ遊ぶだけじゃなく狩りの練習も兼ねられるように弓矢を構えさせたりして、イヌイットとして生まれて暮らすナヌーク一家の生活、見応えがあった。意外だったのが、彼らは街の市場にも行くのだから、世界にはイヌイットとして以外の生き方もあると知っているようなのだけど、快適で近代的な都市生活ではなく、イヌイットとして生まれたことを当然のこととして受け入れて、過酷な狩りの生活を淡々と送っていることが興味深い。
そして獲ったばかりのセイウチの肉を、空腹のあまりその場でさばいてむしゃぶりつく場面、味の想像すらつかないけどセイウチの生肉って食べられるのだなぁ。動物性蛋白質を摂取するばかりで穀物も野菜も食べてなさそうだけど、子供はやがて成長して大人になるし、人間に必要な栄養素っていったい…と不思議な気分になった。
ナヌーク一家は終始ニコニコしてお茶目で、監督、撮影部隊とナヌーク一家の信頼関係が映像から滲み出ている。テレビも普及して久しい現代であれば、世界には様々な人の様々な生活があるのだ、と理解しているけど、1922年当時、映画を観られるレベルに近代的生活を送る人々は、この映画を観てびっくりしたのではなかろうか。
フィルム上映。映写室のような設備はないので、映写機が剥き出しで。小さな会場にカタカタと音が響いていた。もはやカタカタ音にノスタルジーを感じる。
柳下美恵さんのピアノは、ことさら映画を強調しすぎず、そっと寄り添う演奏で今回も心地良かった。来年は会場はまた本郷に戻るのかな?年に一度、季節を感じる上映会があって、東京の映画好きとして幸せな気持ち。