天野と稲葉、若い二人は一緒に暮らしている。 稲葉が仕事を失っていたために二人の生活は厳しかった。それでも彼は仕事 をせずに、夜になれば外を歩き回っている。友人に会ってちょっと奢ってもらったり、煙草売りに詩を教わったり。でも天野は何も言わない。稲葉のことをただ見守っているのだった。そんなあるとき稲葉は友人に 「病院で良い仕事がある」と聞かされる。
あなた、を指す言葉、英語のyouが複数ある言語はいくつかあって、中国語では你と您、仏語ではvousとtu、您→你、 vous→tu、距離が縮まるにつれ移行する瞬間があるということが面白い。ジャン・ユスターシュ「ママと娼婦」は何故か、恋人同士がずっとvousを使って会話していて、五月革命の頃、乱れた仏語を正すべく若者の間でvousを使って会話するのが流行した、というのを何かで読んだ気がするのだけど、出典がわからない。「ママと娼婦」、ほとんど部屋の中で男女が会話してるだけの映画を4時間以上、何が面白いのかさっぱりわからないけど、確かに面白い。面白みを感じている自分を発見するというのか、あの映画を観た時の感覚を「夜来風雨の声」を観ながら思い出し、自分が何を観たのか定かじゃないけど確かに面白かったのは、天野と稲葉、若い2人が3年も一緒に暮らしながら、何故か終始敬語で話していたのも理由なのだろうか。
それから稲葉という男の、得体の知れない、謎の愛玩動物のような仕草や表情も面白かった。可愛いから許す、無職だけど。というような、母性本能くすぐり系というわけでもないのだけど、まだ学名も与えられていない謎の生命体Xに出くわしたような気分。稲葉という男は、本名も稲葉という名前の映画監督でもあるらしく、上映後のトークに登壇されたのだけど、本人の印象と映画の中の印象にあまり差異はなかった。監督も俳優たちも私より少し下の世代の人々なので、よく知らないだけで、その世代の平均的男性像なのかもしれない、と思ってみたりもしている。ベランダに置いてある洗濯機の音が不用意に大きく録られている気がして、その洗濯機の裏側のちょっとした隙間にすっぽりはまりながら、メモ帳とペンを持っている稲葉なんて(応募するための詩を書こうとしているのだと思うのだけど)謎の愛玩動物の萌え仕草、という感じだった。
最近の、新しい映画で時々、起承転結の起→承ときて、ここからどう物語が転がるのかな…と見守っていると、ぷつりと終わる。というケースに出会うのだけど、この映画も不思議な時間の流れ方を見守っているうちに、ぷつりと終わったような気がして、しかし起承転結がきっちりあるからといって、映画の体を成す、というわけではないのだな、と腑に落ちるものがあった。新しい種類の、しかし「映画」を観たという感覚は、身体に残った。
上映前、この映画は「息を殺して」への繋がりも感じられる映画です、という説明があったように思うので、機会をうまくつかまえて観てみたい。