CINEMA STUDIO28

2016-04-18

Carol

 
 
心に留めたまま書いていないことが多すぎる。映画原作のパトリシア・ハイスミス「キャロル」、何週間も前に読了。作家本人の実話だと誤解していたけど、あとがきを読むと、デパートの人形売り場でアルバイトしていたこと、キャロルのモデルになる婦人がそこに買い物に来たことは事実だけど、それ以降は創作らしい。婦人に出会った日、仕事を終えると家に帰り、熱に浮かされたように物語のアイディアと筋書きを8ページほど書き、翌朝に発熱、水疱瘡にかかったらしい。「熱は想像力を飛翔させてくれる」と書かれていた。西川美和監督はいくつかの映画の着想を、夢、悪夢から得たと読んだばかりで、どこにでも物語の種は転がっているのだな。見つけて、形にできる人は一握りだとしても。
 
 
映画にするために小説のいくつかの要素は省略されていたけど、省略されすぎて残念というほどでもなく、主役2人は脚本だけでなく、原作の行間まできっちり読みキャロルとテレーズを体現したのだな、と思わされた。時代的に女同士の恋愛が異端扱いされたことを軸に物語は進んでいたけど、同性だからって何だというの、と思わせるほどに純度の高いただのひとつの恋愛の成り行きがくっきり際立ち、むしろ2人の年の差にこそ特徴があるように思えた。20ほど年の差はあるはずながら、手練れのキャロルにうら若きテレーズがあっさり陥落し転がされるように教育された、というよくある話として描かれてはいないことこそ特徴と思う。夫も子もあるという事情を抱えるキャロル、けれどテレーズも事情を抱えないわけではない。それぞれが自分の時間を生きながら、抗いがたい、能動的な選択として相手を求めることが、きっちり描かれていたから恋愛ものが苦手な私でも、映画も小説も楽しめた。
 
 
それから、映画では2人がいったん別れ、再び出会うまでのそれぞれの時間が描かれ、強い意思をもって、もしくは決定的な出来事が起きて、ということもないまま、最後の再会を迎える。あの描き方は、小説ではくっきり描かれているのを敢えて映画では曖昧にしたのか、と思っていたけれど、映画と小説にさほど差異はない。2人の内面が数ミリ移動し、それによって決意がもたらされる、繊細な表現が連なっていた。そして共にいる夢中の時間ではなく、不意に訪れる別離の時間こそがテレーズを大人にする。映画、小説どちらも、私がこの物語で一番好きなのはそのくだりだった。
 
 
読み終えて改めて表紙の絵を見ると、ホッパーのこの絵はなんて「キャロル」に似合うのだろう。絵の中の女性は、始まりを待つようにも、熱情を冷ますようにも、どの場面のテレーズのようにも見える。