ミランダ・ジュライ「あなたを選んでくれるもの」読了。怒涛の感動!求めていた本はこれでした(本と手を取り合って飛び跳ねながら)!という読了感が訪れるのではないか、という事前期待には至らず、淡々と読み終わったのは繁忙期の通勤往復で心を整えながら読んでいたせいだろうか。今週の私は他者の物語に巻き込まれすぎませんッ、何故なら片付けるべき仕事が山ほどあるからですッ…という静かな警戒が発動したのかもしれない。
新たな映画の準備にあたり、脚本は何度も書き直しを迫られ、追い詰められたミランダ・ジュライは現実逃避のネットサーフィンにも辟易とし、ポストに毎週投函される「ペニーセイバー」という無料冊子に目をとめ、私物を売ろうとする現実の人々に電話をかけ、アポをとり、会いに行く。彼らの多くは低所得者で、ミランダ・ジュライの行動範囲外で生活を営んでおり、PCを持っていないか、持っていても活用していない。SNSにもGoogle検索にも存在しない彼らの生々しい存在感に圧倒され、停滞していた映画の準備も予期せぬ方向に動き出す。
ミランダ・ジュライのようなユニークな人であっても、結婚や出産、人生の残り時間といったことに関して、めぐらせる想像、妄想、取りうる行動、選択肢は無限ではなく、コンサバな数種類に収束していくことが意外だった。そしてどんな本にも読み時はあるもので、半年前の私であればもっとこの本を切実に受け止めたと思う。今年の初め、ふと思い立ちお金にまつわる整理をした。きっかけは今年は真面目に家計簿をつけることにして、新しいサービスに登録してみたら、曖昧に把握していたあれこれが白日に晒され一気に現実のスイッチが入ったことにある。使っていない口座やクレジットカードを解約しながら、現在から未来にかけて何に時間とお金を配分していくか考えた結果、惰性で継続していたいくつかの関係を清算し、繰り返される興味のない誘いには返事すらしないという沈黙の反応を身につけ、インターネットの世界から可能な限り距離を置き、そうして捻出した時間を会いたい人に勇気を出して会いに行き、文章を書き、本を読むことに再配分した。
そんなステップを経て私が味わっている心境といえば、ミランダ・ジュライの言葉を借りるなら、まさにこういうこと。
登場人物を誰もかれも入れることができないのは、なにも映画にかぎったことではない。他ならぬわたしたちがそうなのだ。人はみんな自分の人生をふるいにかけて、愛情と優しさを注ぐ先を定める。そしてそれは美しい、素敵なことなのだ。でも独りだろうと二人だろうと、わたしたちが残酷なまでに多種多様な、回りつづける万華鏡に嵌めこまれたピースであることに変わりはなく、それは最後の最後の瞬間までずっと続いていく。きっとわたしは一時間のうちに何度もそのことを忘れ、思い出し、また思い出すのだろう。思い出すたびにそれは一つの小さな奇跡で、忘れることもまた同じくらい重要だ。だってわたしはわたしの物語を信じていかなければならないのだから。
最後に登場し、映画製作に大きな石を投じることになったジョーとの出会いもさることながら、さらにその後に登場するジョーの妻・キャロリンが私には魅力的だった。
ブリジットはキャロリンの写真を撮りながら、なんだか幸せそうに見えますね、と言った。キャロリンは、ええそうよと言い、それからこう言った。「だって不幸な人間でいるのは良くないことだもの。ドロシーがね、いつもそう言うの。わたしのお友だち。ドロシーのことはもう話したわよね。73年間ずっと仲良しなのよ。
あ、厳密にいえば登場しないドロシーが魅力的なのかもしれない。魅力的な人のまわりには魅力的な人が集まるということかもしれない。けれど彼女たちだって生身で触れ合ってみればそれなりのグロテスクさも備えていることだろう。しかし「だって不幸な人間でいるのは良くないことだもの」、なんてシンプルで力強い真理であろうか…。
見知らぬ人々と出会い続ける過程を経て出来上がった映画「ザ・フューチャー」は東京での公開初日に観たのだけど、数年前のことで細部を忘れているから、再見しなければ。あの映画の裏側にこんな苦悩と心身の移動距離があるとは思いもよらなかった。ミランダ・ジュライの表現はもっと息を吸って吐くようにのびのびと彼女が選ばれし存在であるかのようにこの世に生み出されていると勝手に考えていた。他者というのは、まったくもって謎の塊だと改めて思う。