シネスイッチ銀座で。東京公開の初日に観た「裸足の季節」(Mustang / Dir.Deniz Gamze Ergüven)。トルコ版ヴァージン・スーサイズのような…と聞いており、それってどんなの?と楽しみにしていた。ヴァージン・スーサイズが好きなわけではないのだけど。
首都イスタンブールから遠く離れた村に暮らす美しい五姉妹。学校は男女共学で、放課後、水辺で男女入り混じり騎馬戦をして遊んでいたら、目撃した村人が彼女たちの祖母に告げ口し、激昂した祖母は姉妹を家に閉じ込める。思春期の彼女たちには、こっそりつきあう恋人がいたり、サッカーの試合を観に行きたかったり、外に出たり理由は千ほどあって、姉妹が協力して達成したり、失敗したりする。やがて祖母は上から1人ずつ結婚させることを決め、1人また1人と結婚していくのを見送った、最も自立心の強い末っ子・ラーレは…。
大人になった女たちが着る露出の少ない貞淑な、修道女のような洋服(「くそ色」と忌々しく呼ばれる)を拒否する姉妹たちの洋服はパステルカラーで、長い髪をなびかせ脚を絡めあって戯れる描写は確かにガーリーなのだけど、イスラムの厳しい戒律を守らんとする世代と、自由を求めて抵抗する世代の対立を描くこの映画は想像以上に骨太だった。
ベルトコンベアに乗せられたように、年頃になると誰がどこで見つけてきたのかわからない見知らぬ男との結婚が、あっけなく決まる。女は処女でなければならず、定期的に処女検査を受け、初夜にドアの向こうで義両親が待機し、シーツに血がついているか(ちゃんと処女だったか)点検される始末。こういった題材は、イスラム圏映画を観はじめた当初は驚いたものの、何本か観るうちに慣れた。いくつか観たイラン映画で、処女検査を嫌がって自殺した結婚間近の女性や、婚約者以外の男性と親密そうに見えてしまったために消えた女性、若者世代とその親世代の対立など、「裸足の季節」の背景にあるものに、見覚えはあった。
それらは緻密な脚本、サスペンス仕立ての展開、完成度の高い映画揃いで緊張が切れることなく観られたけど、物語を駆動させるための強い要素だった「彼女たち」は終始哀しい表情を浮かべたままだったから、「裸足の季節」で私は初めて「彼女たち」がいかに戦うか?を観たように思う。イスラム圏といっても広く、イラン映画の女性たちは皆ヴェールをかぶっていたけど、トルコの姉妹たちはヴェールはおろか、半裸に近い服装でうろうろしていたから、微妙な文化の違いもあるのだろう。何も知らずに観ていたので、観終わってようやく監督が女性と知って、深く納得。「彼女たち」のその先を、ちゃんと描いたのが女性ということに納得した。
来日していた監督(中央)と、五姉妹のうち4人が上映後に登壇。華やか!戦う末っ子・ラーレは左から2番目。トルコのエル・ファニングと呼びたい、あどけなさと賢さがくるくる入れ替わって目の離せない美少女。
物語で五姉妹のうち一番ちゃっかりしているキャラクターが長女、というのが意外。次女と長女が反転していればしっくりしたかもしれない。祖母の決めた相手としぶしぶ結婚するのが次女、お見合いさせられそうになりながら抵抗し、唯一、恋人と結婚できたのが長女。処女検査をくぐり抜ける方法もしっかり身につけ…。要領の良さを妹たちに伝授してあげればよかったのに…お姉ちゃん…。
五姉妹それぞれの行く末を見守りながら、末っ子・ラーレにフォーカスされた物語でもある。じりじり自分の結婚の順番が迫る中、姉たちの顛末をしっかり観察した彼女は、家を出て遠くに行くことこそ唯一の未来と目標を定め、達成の道具として自動車の運転を覚えんとする。知り合ったトラックドライバーに教えてもらおうとして汚れた靴をからかわれたラーレは、おめかしの日に履くような、赤いエナメルの靴を履き、再び教えを請う。
不自由だろうと女として生まれたのは動かしようのない現実なのだから、綺麗な靴履くぐらいで運転教えてもらえるなんてあら簡単、いくらでも履くわ!と、女らしさは主張しない、女だから強いられる不自由さにメソメソもしない、けれど、女らしさが有利に働くならいくらでも利用してやるわ!という賢さが素敵。閉じ込められ、窓に格子がかけられていく家で、この小さな革命家の新しさこそが光だった。辿り着いた場所で、姉たちが実現できなかったぶんまで颯爽と未来を生きていくのだろうな。
トルコ・ドイツ・フランスの合作で、並みいる有名監督を差し置いてこの映画は今年のオスカー外国語映画賞のフランス代表に選ばれたそう。監督は次はハル・ベリー主演で新作を撮るという、期待の新星とのこと。姉妹たちに囲まれた監督は映画に登場しない、異国に住んでる進歩的な親戚のお姉さんみたいで、語り口は明晰ながら、仕草やファッションがとても女らしく、ラーレはきっと彼女の中にもいるのだろう。