先日、恵比寿で。写真美術館のリニューアル記念として杉本博司が展示しており、そちらはまだ未見だけど、敷地内のガーデンシネマで「羅生門」の上映があった。
展示はこちら。11/13まで(メモ)。
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2565.html
劇場シリーズは何作かこれまで観たことがあって、今回は「廃虚劇場」という新シリーズを発表とのこと。引用すると、
「本展覧会で世界初公開となる写真作品<廃墟劇場>を発表します。これは1970年代から制作している<劇場>が発展した新シリーズです。経済のダメージ、映画鑑賞環境の激変などから廃墟と化したアメリカ各地の劇場で、作家自らスクリーンを張り直して映画を投影し、上映一本分の光量で長時間露光した作品です。8×10大型カメラと精度の高いプリント技術によって、朽ち果てていく華やかな室内装飾の隅々までが目前に迫り、この空間が経てきた歴史が密度の高い静謐な時となって甦ります。鮮烈なまでに白く輝くスクリーンは、実は無数の物語の集積であり、写真は時間と光による記録物であるということを改めて気づかせてくれるこれらの作品によって、私たちの意識は文明や歴史の枠組みを超え、時間という概念そのものへと導かれます。」
以前、「映画館と観客の文化史」(加藤幹郎著)を読んだ時、こんな文章があって、
「映画とは、現像された上映用プリントそのもののことではないし、ましてその先行形態であるネガや撮影されるまえのセットや被写体の総体のことでもなく、上映用プリントが薄暗がりのなかで映写機にかけられてスクリーンに投影されたり、その動画像/音響情報が電子情報に転写されたりしてはじめて可能になるものだからである。しかもそれは絵画や写真のように、それじたいとしては鑑賞所有することはできず(それはヴィデオ・テープやDVDといったフィルム以外の媒体に変換された場合でも同じことであり)、映画はあくまでも物理的に触知不可能な映像(と音響)の時間的経験としてしか立ち現れない。」「それゆえ映画館(上映装置)が論じられねばならないのは、映画が立ち現れる場所以外に映画に訪ねるべき起源がないからである。」
この本は、この切り口から映画館と観客の歴史を語るもので面白い。そしてそもそも映画って何なのだろうか、と考える時に、杉本博司の「劇場」シリーズは、一つの答えであるな、と思っていた。区切られた時間、暗闇で物語つきの光を観ること。それは数千、数万の連続する写真でもあること。
上映前に杉本博司さんが登壇され、「廃虚劇場」シリーズについてお話をされた。アメリカにお住まいで映像の仕事をしている杉本さんの長男の方が撮った映像つき。
長く「劇場」シリーズを撮り、通常の映画館以外にもドライヴインシアターなど、様々な形態の映画館をひととおり撮ったため、新たなシリーズを考案した。廃虚劇場はアメリカ中西部、デトロイトやシカゴに多く、治安の悪い場所も多い。廃業後、数十年も放置され文字通り廃虚化しており、シートが見る影もなく溶けて床に落ちていたり(シートって溶けるんだね…!合皮だから?)、屋根が朽ちてヘルメットなしで歩けなかったり、撮影は危険と隣り合わせ。スクリーンがない劇場もあり、そのような場所ではスクリーンを自ら設置するところから始める。1点、作品撮りに行ったゲーリーという街は治安の悪さで全米ナンバーワンの街で、事前に撮影中の警護を警察にお願いしていたが、撮影が近づくと連絡がとれなくなり、聞けば担当の警察官が麻薬取引でパクられたり…と、作品自体もドラマティックながらその裏側のエピソードは作品以上にドラマティック。エピソードも含めて書籍化してほしいな、アメリカの映画産業の栄光と衰退についての素晴らしい記録になりそう。
上映する映画(おそらくフィルム)は複数のタイトルを持って行き、その場でかける映画を決めるそうで、この写真はボストンのフランクリン・パーク・シアター。撮影の日は雨が降っており、外が雨ということは、屋根の朽ちた廃虚劇場の中も雨で、雨のシーンから始まる「羅生門」を選んだ、とのこと。
展示を未見なので、「廃虚劇場」シリーズも未見なのだけど、トークを聞いて、灯りが消えて、始まった「羅生門」が滅法面白くトークの記憶を強烈に上書きしていった。映画とは…をコンセプチュアルに表現した写真より、映画そのものが面白いってなんだか健全な気もする。素晴らしかったよ、「羅生門」の物語成分を含んだ光!