マノエル・ド・オリヴェイラ「アブラハム渓谷」が1993年の映画だということに驚く。「アンジェリカの微笑み」でも思ったけれど、中世の絵画のような画面を眺めていると、突然、車が通り過ぎたりして、なるほど…1世紀以上生きた人には世界はこう見えているのか…と。
果実が実る段々畑と渓谷を捉えた俯瞰から物語は始まる。アブラハム渓谷とは、旧約聖書のユダヤの族長に因んだ地名。神が禁じた強欲、嫉妬…罪に汚れた村だったが、アブラハムは民衆を統率するために、妻の美貌を利用したという。
この映画を最初観た時は、エマのことばかり追いかけていた。終始、極上の、毛足の長い繊維を目で撫で続けるような映像に酔ったせいかもしれない。アブラハム渓谷で生まれて死んだ奔放な女の物語だと思っていた。そしてフローベール「ボヴァリー夫人」の主人公と名前も同じエマで、この映画はあの物語のポルトガル版なのだ、と思っていたけどさらに1つクッションがあって、「ボヴァリー夫人」をもとにポルトガルの作家アグスティナ・ベッサ=ルイスが書いた原作がもとになっているとのこと。映画のエマも「私はボヴァリー夫人でも、フローベールでもない」と説明している。「ボヴァリー夫人」のようで、少し距離がある物語なのだった。
2度目の「アブラハム渓谷」は、2度目の余裕のせいかエマ以外の人物も視界に入れることに成功した。アブラハム渓谷に脈々と続く女たちの歴史。女王のように君臨した肖像画の中の女性。男からの欲望を拒み処女として生きる耳の聴こえない洗濯女。夫の放蕩も支配下に置くために敷地内に浮気用の離れをつくった女主人。そして自らの美しさを十二分に利用し、男に欲望されることを欲望し続けるエマ。後に夫となるカルロスが成長したエマを再び見初める場面。エマは喪服を着て、悪いほうの足を引き摺っていることすら欲望を喚起させる装置として機能している。
男と、男の欲望への対峙の方法がそれぞれ異なる女たちを見つめていると、次第に彼女たちはみんなで1人の女性だったのではないか、と思えてくる。禁欲的な洗濯女と奔放なエマは光と影のようにぴたりと寄り添う。男の欲望を拒むこととそれを欲望することは、行動としては真逆でも根は同じところにあるのではないか。アブラハム渓谷において女たちの存在は男の欲望が前提となり、美貌をもって君臨せんと試みるエマとても、振舞いが奔放さを増すにつれ、却って不自由な生が際立つ。かつて自分に仕えた身分違いの男が、成功し戻ってからエマを手に入れんとするくだりで、エマは気づき、それまでの生き方を放棄したのだ。渓谷を支配するために美貌の妻を捧げたアブラハムのように、自分もまた男たちが手に入れんと渇望し、権力を誇示するための道具に過ぎないと。
洗濯女に別れの薔薇を手渡し、エマは初めて男のいない時間を生きる。最後のくだり、ひとり身支度するエマは白にブルーの、少女のようなワンピースを着ていた。あ、と思ったのは、彼女の結婚の日を思い出したから。白にブルーのドレスを多くの女たちの手で着せられながら、愛していない男と結婚するなんて…と口走るエマを女たちがたしなめる。
最後にエマはひとりになり、まだ自分の美貌も自覚する前の何も知らない少女に戻り、愛していない男ではなく、自分自身と結婚したのではないか。自分ひとりで着た白にブルーのワンピースのエマは、解き放たれたような晴れやかな表情を浮かべていた。推し量るばかりでエマの心情は、女としてわかるという部分と他人だからわからないという部分を往復する。あっけない最期の水面を眺めながら、覆いかぶさったナレーションが読み上げる、女主人の書いた小説の「たいしたことは書いていないけど、人生は美しい。それだけは一生懸命書いたつもりよ」という一節に、自分でも何を意味するのかわからない深い深い溜息をついた。客席の灯りがついてもまだ呆然としていた。