フランス映画祭6本目。マルタン・プロヴォスト監督「ヴィオレット」。
あらすじを引用すると「『セラフィーヌの庭』でセザール賞最優秀作品賞に輝いた名匠マルタン・プロヴォストが、ボーヴォワールの女友達と呼ばれた実在の女性作家、ヴィオレット・ルデュックの半生を描いた感動作。文学界に衝撃を与えるものの、当時の社会に受け入れられず、愛を求める純粋さゆえに傷ついた彼女が、やがてプロヴァンスの光の中に幸福を見いだすまでを、生涯続いたボーヴォワールとの関係を中心に描く。背景となる40〜60年代、戦後パリの新しい文化の胎動も大きな見所の一つ。」
ヴィオレットは両親からの愛に恵まれず、男からも邪険に扱われるものの、とにかくお前は書け。と言われ続けて書き、書いたものをどうしていいのかわからずにいたところ、訪れた部屋に偶然置かれたボーヴォワールの著書を発見し、あ、女も本を書くの?と驚き、ボーヴォワールが出没するカフェに陣取り、コンパクトで顔を整えるフリをして鏡ごしにボーヴォワールを眺め、話しかける機会を伺って…いるのが、ポスターの場面。この場面がドアノーの撮ったボーヴォワールの写真そのもので美しかった。カフェの天井が高くて。カフェを出たボーヴォワールを尾行し、住まいをつきとめ、ドアの前に花を置いて逃げ去るまでのこの一連の場面、緊張感あって良かった。
その後、ボーヴォワールの導きにより著書出版に漕ぎつけるも思うように売れず…生活の困窮は続き…。興味深いのは、ボーヴォワールは自分で書いて活動するだけではなく、ヴィオレットに対しては編集者の役割も担っていたのだな。ここの部分をもっと削って、ここを膨らませて、と細かくアドバイスしているし、認められず自棄になるヴィオレットをなだめて、その怒りは文章にぶつけろ!書け!書くのだ!と、スポ根ぽく追い詰めたりもする。
ヴィオレットは同性愛者のようで、生まれてから誰にも愛されたことがないからか(母親もなかなか強烈)、他者との距離の詰め方がおかしい。ボーヴォワールに対しても同じで、ヴィオレットの精神が錯乱した時、病院にかけつけた男にすれ違ったボーヴォワールが「彼女とは友達になれないの、わかるでしょ?」と言い放っていた。
最後は明るい光の中にいるヴィオレットにようやく安堵したものの、名声は得たけれど、彼女はその後の生涯含めて愛は得たのかなぁ。父性にも母性にも守られることなく、この世に産み落とされたヴィオレットにとって、ボーヴォワールというのは、父でも母でも性の対象でもあり、全方位的に大きな存在だったのだな、と思った。
ヴィオレット役にエマニュエル・デュヴォス。役柄のせいか、必要以上に醜く映っていた。ボーヴォワール役のサンドリーヌ・キベルラン、ボーヴォーワールの実像は写真を通してしか知らないけど、私のイメージするボーヴォワールそのもので、映画の中心にいる女性2人の配役がぴたっと決まっている気持ち良さのある映画だった。
Q&Aには監督と、エマニュエル・デュヴォス登壇。
・ヴィオレット・ルデュックという作家について、監督は、監督自身の自伝小説の編集者から教えてもらい、共同で脚本を書いた。フランスでもあまり知られておらず、書店でも並んでいなかったけれど、この映画をきっかけに並ぶようになった。
・(エマニュエル・デュヴォスの起用について)顔を醜くしていいかな?と尋ねたら、快諾してくれた。(デュボスいわく)そのようなオファーは女優にとって素晴らしいプレゼントのような役だと思った。
・父親に認知されず、母親も一歳半になるまで出生届を出さず、祖母に育てられた。それがヴィオレットが一生涯抱えることになる葛藤だった。父親がわりがボーヴォワールだったのではないか。母親より先に亡くなったという事実も、ヴィオレットなりの抵抗だったのかもしれない。
・ヴィオレットの文学について、「文学による救済」とボーヴォワールは言った。
・(エマニュエル・デュボスいわく)自分の持つ苦しみを芸術、アートを通じて乗り越えて行くことほど美しいことはない。ヴィオレットは文学界のゴッホだと思う。日本でどのように紹介されているかわからないけれど、是非読んでみて欲しい。
・(長回しの多用について、エマニュエル・デュボスいわく)偉大な監督と組むのであれば、問題ではない。役者にとっては嬉しいこと。
12月19日から、岩波ホール他にて上映とのこと。ああ、岩波ホールが似合う映画だったなぁ。