アップリンクで。ロウ・イエ監督「二重生活」を観る。原題は「浮城迷事」、英題はシンプルに「Mystery」とのこと。2012年の映画。
中国・武漢。交通事故で亡くなった女性は、数時間前まである男と会っていた。その男には、2つの家庭があった。2人の妻はそれぞれ子供を持ち、男は家庭を行き来する。子供同士の幼稚園が同じことで妻たちは近づき、謎が明かされていく。
中国の「愛人文化」が下敷きになって・・・「愛人文化」ってさらっと読んでしまうけどさらっと読み過ごせないな。富める男が家庭を持つには至らなくても、複数の女をまわりに置くことに国の違いはないはずだけど、中国の場合、一人っ子政策が絡んでくるので確かに「文化」と呼ぶほどのことかもしれない。この映画の男の場合、本妻との間にできた子は女で、男の母の「男の子が後継ぎとして欲しい」という要望により、ほぼ同時期に愛人に男の子を産ませている。
男は複数の女の間をふらつくばかりでなく、職業も「妻の家業の跡継ぎ」としての会社社長で、積極的に仕事をしているふうでもなく、周囲に言われるがまま、求められるがままにふらふらと漂い生きてきたらしい。どこをとっても複雑な関係をうまくやりすごせるように見えない男は、事故をきっかけに転落していく。
ロウ・イエの映画はまだ3本目だけど、スクリーンで観たせいもあるのか、これが一番面白かった。「天安門、恋人たち」で主演した女優が、あの美少女の面影はどこに?と思うほど、やつれた本妻役で登場したことに驚く。「天安門、恋人たち」は溌剌とした前半に続き、殺伐とした後半が待っていた映画だったので、あの映画の続き、あの女がこうなったのだ。2本の映画は地続きだ。と思えなくもない。
2つの家庭は貧富の差が明確で、愛人宅は学生時代の延長のような雑然とした家だった。そこに本妻が乗り込み、自分と夫が知り合ったのは学生の頃で、この場所は当時を思い出させる。耐えられない・・・と言っていたのが不憫だったな。
武漢という場所が選ばれたのは、中国の中でも貧富の差が激しい街だから、らしい。映画のロケ地になるような美しさがあるわけでもない街に見えるのだけど、何でもない山あいの崖地で、事故の詳細が映し出されるスローモーションのショットは、どうやって撮ったの?という疑問もあいまって、恐ろしさと瀬戸際の際どい映画的な美しさがあった。
上映後、ロウ・イエ監督と、監督のファンだという曽我部恵一さんのトークがあった。
監督と主演俳優が、この男にとっての愛とは何か?を話しあった時、本妻にも、愛人にも愛を感じているわけではなく、本宅と愛人宅を車で行き来する、その道中は距離的に30分ほどで、ひとり移動しながら車の中でふっと感じる何かが、この男にとっての愛ではないか。という意見になったらしく、女としては、酷いね・・・と思うところもあるのだけど、その気持ち、わからなくもない。
愛人にとっては、夫が来るのを「待つこと」に愛を感じており、登場人物にも、現実と同じように、愛とは。の答えは人の数だけある。白でも黒でもない、曖昧なものだ、と監督はおっしゃっていたし、確かにそのような映画だった。そして中国独特の、ひとくちに共産主義とも言い切れない統治の曖昧さや、一人っ子政策を国民として受け入れながらも、家族の在り方は個人の欲求も踏まえてグレーゾ―ンを追求するしたたかさや、曖昧さを曖昧のままにしながらも、何かしら力強いものをはらんで、堂々とそこにある。という、私が中国に感じる印象が、むわっと漂う映画だった。
中国の愛人文化を語るとき、使う言葉・・・「二奶」「小三」あたりは、記憶の片隅に残っていたのだけど、最近よく使われるという言葉を例に出し、監督の言葉で説明してくださったのが面白かった。
「緑茶婊」
外見は素朴で、化粧気もなく女らしさを感じないのだけど、中身は異性関係が派手で、男友達がたくさんいるような女性のこと。緑茶、は素朴さの象徴なのかな・・?
「鳳凰男」
この映画の主人公の男みたいなのは、中国では「鳳凰男」って呼ぶんだ。とのこと。調べてみると、農村部の裕福でない家庭出身で、一家の全力の応援を得て都市部の大学に通い、卒業後も都市部に残って働きながら生活を送る男性とのこと。そういう背景は映画の中では描かれないのだけど、映画では妻はおそらく武漢(都市部)育ち、実業家の娘で、夫の本質は、愛人宅のあの、学生の部屋みたいに素朴で雑然としたところにあるのだろうな。鳳凰は、羽を広げるから・・・?(それは孔雀・・?)
ロウ・イエ監督はインテリヤクザふうの風貌で、最初は緊張されていたのか表情が険しかったのだけど、後半、リラックスしてくると時折見せるニコッとした笑顔のギャップが素敵で、ああ、この人は恋愛映画を撮る人なのだなあ。と思った。個人の物語に中国の社会や政治が絡むことに関して、もし政治的主張をしたいのであれば、映画ではなくて言葉でそれを言えばいいだけ。映画を撮っているのは、そういったことだけを言いたいからではない。映画監督だけではなく、音楽家や画家も同じではないでしょうか。と、最後に真剣におっしゃったのが印象的。
こちらに記事あり