シネマヴェーラで。フレデリック・ワイズマン「動物園」(Zoo / Frederick Wiseman / 1993)は、マイアミの動物園で撮影されたドキュメンタリー。
初めてアメリカに行ったのは確か91年?で、マイアミ。動物園に行ったような気がしたけど、記憶違いで確か水族館だったか。そこのレストランだったかどうかは忘れたけど、イルカを食べた記憶がある。ぱさぱさしていて、アメリカのボリュームで、完食できなかった。時代のせいか場所のせいか、この映画に映るアメリカは、私が初めて見たアメリカに近かった。
映画が始まってしばらくは、動物園に集う人々、フィルムカメラを構えて動物を撮る人々、象の曲芸、曲芸をさせる飼育員。そのあたりまではテレビでも放映されそうな動物園映像で、カバの出産シーンに差し掛かったあたりから、ワイズマン映画の色が濃くなる。高齢出産の初産で、母体にいた時間が通常より長かったらしく、死産だった。飼育員や獣医たちが集まり、蘇生を試みるも、生まれてから息はしなかったみたい。開かない目で「母親のほうを見ているわ」など、しんみりした空気が流れれたかと思った次の瞬間、ショットは切り替わり、女性の獣医が周囲の施設に電話をかけ、これから解剖するけど、臓器欲しい?と連絡している。そして焼却炉の前で解剖が始まり、慣れた手つきでメスを入れ、体を開き、ちゃっちゃと切り分けていく。皮も貴重なもの、生まれたばかりだもの。などと言いながら。べろんと赤黒い臓器を取り出し、用は済んだとばかりに焼却炉に放り込む。
獣医は日々、大忙しのようで、オオカミの去勢手術の場面もある。オオカミを取り押さえ麻酔を打ち、手術台に乗せて取り囲むのは全員女性。腹を切り生殖器を取り出すと「チョン切るわよ」「誰か欲しい人?」と、井戸端会議のように和気藹藹と手術は進む。
餌をやる場面。オオトカゲには魚とふわふわのヒヨコを。女性飼育員が、ふわふわの兎を手に持ち、鉄の棒でカーンと頭の後ろを何度も叩くと、ぴくぴく動きながら兎は死んでいった。それを「さあ、お食べ」と言いながら、ニシキヘビの口元に置く。ヘビと兎のサイズ感を観ながら、どうやって食べるのだろうと見ていたら、ゆっくりした動きで呑み込み、ヘビの胴体には兎の体積のふくらみができた。「星の王子さま」にあった絵みたい。
小さな動物たちに与えるのか、果物、卵などを大鍋に混ぜ合わせていく。そこまでの味の想像はかろうじてできたけど、肉片をほぐしながら投入したあたりから想像がつかなくなった。一度に食べるか、何皿に分けて食べるかだけで、人間も一食で同じものを食べているはずだけど。
目に映る人間の動きはすべて、動物園の活動のためであって、つまり、動物を活き活きと、生態に近い状態で人間に見せる。という目的のために人間たちが働いている。
寄付金を募るのか、動物園にドレスアップした地元の人々を招いての食事会で映画は終わる。大鍋で炊かれるパエリアは、さっきの混ぜた餌に見え、焼かれる肉の塊は死んで生まれたカバの子供の、最後に取り出された臓器に見えた。
観終わった翌日、映画の記憶が網膜に残り、今日は肉は食べられないかも、と思いながら冷蔵庫にあった肉を取り出した。食べられないかも、と思いながら焼いた。焼いているうちに、これは動物の肉である。という考えを、これは食べ物である。という考えにすり替え、皿に乗せる頃には美味しそう。と思い、美味しい。と思いながら食べ終えた。
どこかの動物園に時々ある、檻だけを置いて「人間/ヒト科」といった看板をつけ、鏡を前に置くような仕掛け。あれは飼育員たちの良心の呵責のあらわれなのだろうか。小さな動物を殺してより大きな動物に与える側の自分も動物であり、動物の生殖器を切り取る側の動物である、ということを、ワイズマンのドキュメンタリーのように日々続けていると、良心の呵責に苛まれるのかな。と思いながら、当分、肉は食べられないな。という舌の根も乾かぬうちに、牛の一部を摂取した自分こそ、業が深いのでは。と思われた。