アンスティテュ・フランセで。ブリュノ・デュモン監督「プティ・カンカン」(P'tit Quinquin / Bruno Dumont)を観る。カイエ・デュ・シネマが選ぶ2014年ベスト10で、1位だった映画。
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「プティ・カンカン」はフランスのテレビ局Arteから監督に依頼されて作られた50分4本のTVシリーズで、4本を繋いだ200分、シネマスコープ版が上映された。ブロネ地方の海沿いの村で、牛の腹から切断された人間の身体の一部が見つかる。プティ・カンカンは村に住む少年の名前。少年にはイヴという美人なガールフレンドがいて、悪ガキ仲間たちと海で遊んだり、デートしたりしてヴァカンスを過ごしている。憲兵隊2人組が事件の解決に迫り、プティ・カンカンたちも事件を追うが、遺体は日を追うごとに増えていく。
誰も知った俳優がいないし、200分も集中して観られるかしら…と心配していたけど、あっという間だった。知らない俳優ばかりなのは当然で、俳優はみんな素人、監督が1年かけて撮影場所の村の人々をオーディションして選んだのだとか。憲兵隊の2人、特に眉毛の長い隊長、どこかで観たことあるな…誰だっけ…あの映画だったかしら…と思い巡らしていたけど、プロの俳優にしか見えない隊長も素人。憲兵隊の2人は現実生活では2人とも無職、ときどき造園を手伝ったりしてちょっと稼いでる人たち(だったかな)。暗い物語のはずなのに、ところどころ笑える場面があって、笑いながら物語を追ってるうちに終わるのだけど、観終わって時間が経つと笑ったことはすっかり忘れ、ただ不気味さだけが残る。
奇妙な殺人事件の舞台になった村、フランドル絵画に登場しそうな素朴で静かな海辺の村だな、と思って見ていると、後半、浜辺に張り付けられた裸の女の死体を見ながら、憲兵隊長がフランドル絵画の裸婦のようだ…あの画家…ルーベンスの。というセリフがあったから、私の視覚は監督の狙いどおりだったのか。しかし決定的に絵画とは違うのは、草むらに残る戦争遺構であるトーチカで、近づいてはダメと言われながらもプティ・カンカンたちはトーチカを遊び場にし、手榴弾を見つけて遊び、また牛の死体もトーチカで発見されヘリコプターで吊り上げられる。トーチカがある以上、これは現代の物語なのだ。
シャルル・エブド事件を預言した!という感想も何かで読んだのだけど、確かに子供同士のたわいのない会話の中で差別を受けた黒人の少年が、自分はイスラムの神と同じ名前である!と叫びながら家に立て篭り周囲に発砲する場面はあった。けれど預言…というより、フランスに内在する問題が、現実で表面化したのがあの事件で、フィクションとして物語の一部とされたのがこの映画、というだけのこと。次々に人が死ぬ中で、彼の死だけが猟奇的に殺されたものではない。
そこから出ていくことに心理的重みもありそうなこの小さな村に、宗教、差別、精神障害者…の存在があって、大人たちは狭い範囲で不倫にふけり、子供たちは無邪気に遊び恋もする。事件が絡むことでそういった現実が白日のもとに晒されていく。少女の美人なお姉ちゃんの歌う歌、上手なのだけど、歌がなんだか絶妙にダサくて、持ち曲もその1曲しかないせいか、村の人たちもあちこちで何度も同じ歌を聴くはめになり、悪ガキたちが歌い方を揶揄して真似するさりげないそぶりも、笑えるようでいて狭い共同体でのさりげない憎悪が見えるようで、ゾッとする。悲惨な殺され方をした人の教会での葬儀で、神職者たちが素人くさく笑いをこらえながら儀式を進行しているのにもゾッとするし、故人の思い出の曲というわけでもなさそうなのに、ただ人前で歌えるレベルに上手いという理由で、葬儀の場でお姉ちゃんが出てきて、絶妙にダサい歌を披露するのも、村人たちが神妙な顔つきで聴いているのも、悪趣味で不穏でゾッとする。憲兵隊長がつぶやく「ここは地上の地獄だな…」って最近、ニュースみながらよく思うからフィクションをフィクションとは思えなくなっている。
プティ・カンカンと少女の恋は、大人びているような子供らしいような曖昧な線をふらふらし、事件と絡んで最後はロミオとジュリエットのような悲劇の様相を帯びてくる。ロミオとジュリエットみたい…と思っていたら、後で監督の口からもロミオとジュリエット。という言葉が出てきたので、私の視点は監督の思惑どおり…。最後、誰が犯人か特定されたようなショットで物語は終わったけれど、あくまで頼りなさそうな憲兵隊長の推理に過ぎず、次の日には容疑者が殺され、真犯人は別にいる。という物語の続きがあったとしても驚きはしない。誰もが犯人になりうる怪しさをはらみつつ、疑わしきは誰もが犯人のように見えてしまう自分の目かもしれない、という物語のように私には思えた。
複雑な味わいの「プティ・カンカン」、ブリュノ・デュモン監督はこんな方(右側)。左は聞き役のカイエ・デュ・シネマ編集委員の方。質疑応答の受け答えを聞いていても、深い思索と職人気質の人というイメージ。映画監督になる前は、企業などの映像を注文して作る仕事をしていた時期が10年ほどあるとのこと。その前は哲学教師だったそうで…今この映画の背景には、監督のそういった経歴がある。というのが納得できる方だった。客席から「ツイン・ピークスを思い出したのですが…」という質問が投げかけられると、「見ていないので答えることができない」と二言で回答が終わったり…。
素晴らしい通訳つきで監督の話を聞くことができたのだけど、含蓄深すぎて断片的に覚えていることを自分の解釈で文章におこすことに抵抗がある。まとめてどこかで読めるといいのだけど。耳に残ったことをメモしておくと(記憶が間違ってる可能性もあり)、「映画は虚構だから、ドキュメンタリーは信用しない」「素人を起用したとしても、その人の本来の職業を演じているわけではない。無職で造園を手伝ってる人が、映画では刑事を演じる。そのズレこそが映画」など。監督の映画で一貫して描かれている宗教、信じることについての問いに関しては、監督自身、クリスチャンだった過去があり、しかし現在は無宗教者であることに触れながら回答されていた(ここの部分を思い出したいのだけど、思い出せない。しかしとても納得しながら聞いた。映画を観ることと教会で祈ることは似た行為で、映画の中でだけ人々の前に神を存在させることができる…フィクションとして…のような内容だったかな…違うかも…)。
もっとも耳に残ったことは最近、暴力的な事件にフランスも日本も遭遇している。ということに対し「人間にとって暴力は必要。人間は暴力的な存在だから。けれども暴力の表現は文化の役割でああって、人間の首を斬るようなことは現実であってはならない。それは映画でなければならないんだ」という発言。
集客できるような俳優が出ていないせいか配給されるかどうかもわからないけれど、今これを観ずして他に何を?素人を使って現代のフランスを描き、200分も飽きさせず余韻を残す、こんな映画こそ今、目撃すべき奇跡と思う。気の滅入るニュース映像ばかり観て、心がぐったりした後に観たせいか、上映とティーチインを経て「プティ・カンカン」、最近観たたくさんの映画の中でもっとも心に残っている。