4月、日比谷シャンテで。オスカー総なめの「バードマン」を観る。エマ・ストーン好きなので楽しみにしていた。
ジャズのCDなど再生してみて、1曲20分なのか…と思う時のように、観終わってみると「バードマン」、1曲120分なのか。って長い1曲を聴き終わったみたい。最初はぼんやり眺めていたけれど、リズムが身体に入ってきてからは一気にスクリーンに飲みこまれた。六本木ヒルズのスクリーン7のような大スクリーンでかかってる時に観ればよかった、と少し後悔。映画を観ていてもあまり音楽が耳に入らない傾向にあるのだけど、音楽が好きな人は自分とは世界の見方が違うのだろうな、と想像することはよくある。私の見方では音楽は映画に寄り添ったり強調したりするものと思っているけれど、この映画の音楽は主従逆転して音楽の上に映画が踊ってるみたい。
かつてアメコミもののヒーローを演じた落ち目の映画俳優が舞台に挑戦するにあたって選んだのがレイモンド・カーヴァー。カーヴァー自身のアルコール依存など激しめの側面は、そのままバードマン俳優とその娘のキャラクターに振り分けられ、主要キャストのほとんどが他の映画でアメコミ大作もののヒーロー・ヒロインを演じた経験がある、というなんとも含みのあるキャスティング。映画を構成するすべてが地層のように意味を持って積上げられており、そのまま食べても、剥がしながら食べても美味しい。
エマ・ストーンの役柄は普段のイメージからは挑戦的に思えるけど、素行や仕草の根っこに、いい子感を匂わせるのはエマ・ストーンならでは。肩のタトゥーはラストシーンで彼女が見上げる、空を舞う鳥の柄だったように記憶しており、ああ、なんだかんだ言いながらもバードマン、大好きなんだね。
劇場のバルコニーでのエドワード・ノートンとのこの会話。何が欲しい?と、ちょっと色っぽく尋ねたエマ・ストーンに、お前の眼をかっぽじって俺の頭蓋骨に埋め込み、その若い目でこの通りを観てみたい。って台詞、この映画で一番好きな台詞だった。あがく中年男たちが失ったものが洋服着て跳ね回ってるようなエマ・ストーン。
映画と演劇の対立もベースにあって、最後のシークエンス、舞台上でのバードマンの一件は、複製芸術である映画の担い手だったバードマンが、明日も明後日も舞台に立たなければならない非・複製芸術(アウラ・・・)の作法を知らずに、バードマンとしての自分を未整理のまま舞台に立ってしまったがゆえの見切り発車、という印象。それが閉塞した演劇の世界に風穴を開けた、と好意的に評されるのもシニカルな話。バードマンの斜め上1mあたりにいる見えない誰か…神?…鳥…?の視点で、まるでワンシーンワンカットのように、現実のように見せかけながらも、考えてみれば冒頭は空中浮遊するバードマンの背中から始まったのだった。最初から虚構なのだ。映画は虚構。アカデミー会員たちがこの映画に盛大に票を投じたのは、よくできた虚構を作り込むために身を削る、映画の世界の住人たちの、映画万歳!という叫びが聴こえるみたい。