週末、体調が優れなかったので、さっと映画を観てさっと帰るコース、第2弾はギンレイホールで「ゴーン・ガール」。とても楽しみにしていたので封切り後すぐに観て周囲に薦めまくり、絶対2度目を観ようと思っていたのでギンレイにかかって嬉しい。
2度目、冒頭4割ほどのベン・アフレックぼんやりターンでは気分が締らず(たぶんベン・アフレックのせい)、もしかして2度観るほどの映画ではない…ということか…?と思い始めたら、妻・エイミーのターンに切り替わりそこからラストまであっという間。やはり完全にロザムンド・パイク映画で、ベン・アフレックについては映画の内容と同じく、相手に不足なし。という感じ。またそのバランスが映画に合ってて…。
デヴィッド・フィンチャーのキャスティングの上手さを讃える映画。ロザムンド・パイクは、トム・クルーズと共演した「アウトロー」という映画のジャパン・プレミアで来日していたのを、たまたま招待していただいて観た時にトムの添え物のようなポジションで壇上に上がったのを観たのだけど、監督よりトム・クルーズより、断然ロザムンド・パイクかっこいいね!という本人の印象が、「アウトロー」の中では発揮しきれていない消化不良感があって、この人が水を得た魚のように活躍する映画を観たいなぁ・・と、頭の隅に残っていたのが「ゴーン・ガール」で達成された気分。
ベン・アフレックについては、「アルゴ」を観た後も特に思い入れのない俳優だったけど、テレンス・マリック「トゥ・ザ・ワンダー」を観た時、脇役陣の手堅さに比べて主演の2人、ベン・アフレックとオルガ・キュレリンコの存在がちょっと弱い気がして、しかしその弱さが霞のように儚い映画に似合っており、ベン・アフレックの空洞っぽさを上手に利用したキャスティングだな、と思ったのだけど、「ゴーン・ガール」はその期待の遥か上にあった。ちょっと自分で自分をネタにしているようなキャスティングだけど、ベン・アフレックはこの役についてどう思って演じていたのだろうか。ベン・アフレック本人はベン・アフレックらしさとは何か、について自覚的なのだろうか。その昔、ベン・アフレックといえばグウィネス・パルトロウやジェニファー・ロペスなどなど、自己顕示欲の強そうな女性とばかりつきあってる印象があって、ベン・アフレックの魅力はよくわからないけど、そのような女を引き寄せる誘蛾灯のようなところが実物にはあるのだろうな…と、想像したりもしていて、その点でも「ゴーン・ガール」は期待を裏切らなかった。まことに正しいベン・アフレックらしさが十二分に発揮されていた。ハリウッド中探してもこれ以上似合う俳優はいない、という2人が主演しているだけで観ていてなんと気持ちの良いことよ。
2度目はさすがに最初見えなかったところがよく見えて、3度目も観たいぐらい。この先きっと何度も観ることになるのだろう。親が創り上げたアメイジング・エイミーが、実物はアメイジングとは乖離があったけれど、自分の力で別のベクトルのアメイジング・エイミーに成っていく過程、夫を巻き込みながら親に復讐するかのように自我に目覚めていく過程は、女の自立ものでもある。小説でいえば鴎外「雁」や、若尾文子でいえば「女は二度生まれる」が好きな私は、女の自立もの、という主題がやんわりと好みで、「ゴーン・ガール」を好きな理由はそこにあるのだな、と思った。
困った時に助けてくれる、お金持ちで、自分をめいいっぱい偏執的なほどに好きでいてくれるあの男を、どうしてエイミーは選ばないのだろう。アメイジング・エイミー双六の上りとしては、とっても愛してくれる男と出会い、何の不自由もなく豪邸で暮らしましたとさ、というお伽話エンディングでも間違いではないではないか。と思っていたのだけど、それはいかにもエイミーの親(特にママ)が思いつきそうなことで、エイミーなりの抵抗としてのベン・アフレック選択ということなのだよな。不必要なほど頭の切れるエイミーは、自力で幸福を手に入れ、その幸福はエイミーがそれまでの人生で握らせてもらえなかった主導権を握ることでもたらされる。ぼんやりしてるように見えながらも、ここぞという場面では役割を果たせるベン・アフレックは相手に不足はなく、あの2人は気の毒なほど似合いの夫婦、ということなのだろう。
結末に向けてエイミーが他人のように綺麗になっていく過程、この映画はどのような順番で撮られたのだろう。ロザムンド・パイクは太ったり痩せたりしていたけど、メイクや衣装の力なのだろうか。自我に目覚める過程で見た目もみるみる輝いていく、そんなところも女の自立ものの系譜として完璧な1本。
私はギンレイで観たけど、目黒シネマでもうすぐかかる時は「紙の月」との2本立てとのこと。去年観た中で最大のモヤモヤ案件だった「紙の月」→「ゴーン・ガール」の順で観ると、モヤモヤがエイミーによって吹き飛ばされてスカッとしそう!