CINEMA STUDIO28

2015-05-23

百日紅

 
 
百日紅と書いて、さるすべりと読むことを、この映画のスケジュールを調べ、チケット買う時なんと言えばいいんだろう?と、ふと思ってようやく知った。封切りされたばかりの別の映画を観るつもりだったのだけど、今週は春画からはじまる連想の日々だったので、そんな週末に観るのはこれが良いのでは、と考えた。観るタイミングによって吸収率は変わる。
 
 
葛飾北斎の娘、葛飾応為が主人公。映画の中では本名のお栄と呼ばれる。絵の才能があり、北斎の代筆をしていた説もあるらしく、映画の中でもそのような描写がある。さっぱりした性格ながら、片思いの男と歩く時には頬を赤らめたり、江戸の女というのか、興味深いキャラクターだったな。北斎の代筆で枕絵(春画)を描く場面もあり、色気のないお栄は、女を描くのは上手くても男は描けず誰かの模写のようになってしまう。男を知らないからだ、そもそも嫁入り前の娘にこんな絵を代筆させる北斎は…というくだりもあり、版元にそのように言われた帰り道、行った先のエピソードが面白い。
 
 
吉原は男の遊び場だけど江戸の街には男娼も存在して、男色趣味のお坊さんなどが入り浸る。男を知らないから男を描けない、と言われたお栄はすたすたと男娼のいるところに入っていく。実際、女もお客として出入りしていたらしい。
 
 
杉浦日向子の原作は短篇集とのことで、長篇映画に仕立てるためにお栄とその妹・生まれつき盲目のお猶のエピソードが長篇を貫く軸になっている。盲目の妹を連れて江戸のあちこちを散歩し、妹のために目に映る景色をひとつひとつ言葉で説明していた。北斎は「病人が怖いのか」と家族に責められるように、お猶にあまり近づこうとしないのだけど、台詞にあったように自分の描くことへの欲が、娘の視力や命を奪ってしまったという思い込み、罪悪感ゆえだったのかもしれない。
 
 
ここ数日帰り道、夜空を見上げると、刀で削ったような細い月がすっと浮かんでいて、時代劇みたい…と見惚れながら歩いていた。こんな都心ではなく、建物もなく夜空がちゃんと暗い場所に行けばもっと月を堪能できるのかな…と考えたけど、江戸の雰囲気も少し残る東京の下町の、自分の今いる場所こそこの月にふさわしいのではないかと考えを改めた。「百日紅」に描かれた江戸はたった200年前の景色なのに、高い建物はなく、電気も携帯電話もなく、娯楽も限られていて、こんな景色の上にあの月が浮かんでいたら、絵も描きたくなるというものだろう、と納得した。
 
 
 
妖怪や目に見えない何かを感じること…それらは恐怖心というより、娯楽のひとつのように描かれていたように思う。 短篇集を映画にしたためか、物語を通じての大きなうねりのようなものは控えめで、江戸の日常がスケッチのように淡々と映し出される。私は浮世絵を見ながら、興味を持ったことをキャプションをじっくり読み、説明と絵を往復しながら江戸の生活に思いを馳せるような気持ちでこの映画を観た。様々な題材の浮世絵を何枚か手にして、ぱらぱら自分のペースで静かに眺めているような気分にもなった。
 
 
媚びない性格のお栄はその後、絵師に嫁いだものの、夫の絵を下手だと言って不仲になり、離縁して北斎のもとに戻ったとのこと。北斎が大往生した数年後ふっと世間から消え、誰もその先を知らない、没年も墓も不明というあたり、死期を悟った猫がふっといなくなるようで、映画で描かれたお栄のキャラクターに似合った、さっぱりしたこの世からの消え方だな、と少し羨ましくなった。