シネマート六本木で。楽しみにしていた東京国際映画祭アンコール上映で、マレーシアのエドモンド・ヨウ監督「破裂するドリアンの河の記憶」を観る。
秋の映画祭期間中、何度もこのポスターを目にして、気になるなぁ・・と思いながらも近づいてじっくり観なかったのだけど、遠目には袈裟を纏い歩く僧侶たちのように見えていて、そんな物語なのか。って勝手に妄想してたけど、思い違いもほどほどにしなさいよ。という話で、ポンチョを着た先生と生徒たちなのだった。だいぶ違うよ。
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あらすじは書いてあるとおり(雑な省略…)で、前半が初恋物語、後半が政治と社会を描いて、別の映画みたい。ちょっと長いな…と思うところもあったので、2本に分けて別々の映画にすれば良かったのに。と一瞬思ったのだけど、あの長さで、1本であることにちゃんと意味があるんだな、と思い直した。映画の重心は前半後半、それぞれ別の女性に移り、本流のような傍流のような位置に常に1人の男子高校生がいて、彼を取り巻く世界がどんどん色を変え、映画が終わる頃には彼の一部があきらかに変容してしまう、そんな青春映画でもある。恋愛も政治も社会も、彼の生活そのものだものね。時間は区切りなく続くもの。前半に登場する女優さんが素敵。蒼井優っぽくもあり池脇千鶴っぽくもある。見た目だけじゃなくて、透明感と、若さに似合わない諦念を同時に感じさせる類の。
そして、ああ、彼の隣にいた女性はみんな、いなくなったんだな。と、思いながら見ていて、抱えきれないほどの悩みを抱えた女性が、それを打ち明けるでもなく彼と時間を共にする。きっと彼が無害で透明な存在だから。無害で透明で、初々しい恋心を抱え、強い政治的主張も持たない。一緒にいて話をしても、彼女たちの悩みが解消するわけではないけど、世界にただ自分を繋ぎとめるために、そんな存在に隣にいて欲しい時ってある。旅先で知り合って、明日にはもう離れてしまう他人のような。
夢と現を行き来する、忘れられないイメージがいくつもあった。「破裂するドリアンの河の記憶」、盛り込みすぎの邦題に思えるけど、長篇第1作で、監督の体内で長らく蓄積していたであろう、言いたいことが一気に爆発したような、この映画に似合ってる。マレーシアには小さい時に半日だけ行ったことがあって、フィルムカメラを持って、初めて自発的にシャッターを押したのは確かあの時だった。現像してみると日本にはない鬱蒼とした濃い緑、木々、葉っぱの写真ばかりで、母に、人が写ってないと面白くないわね。と言われたけど、あの緑、葉っぱが私のマレーシアだった。マレーシアの美しい景色も見せたかったのか、あの緑、葉っぱも写っていて、記憶の底から匂いまで蘇り、鼻先に届いた。