岡崎京子展の続き。どの展示を観に行ってもそうなのだけど、ざっと順路に沿って最後まで観た後、邪魔にならないように気をつけながら順路を逆走し見落とした細部を観に行く。一巡目はやっぱりリバーズ・エッジの部屋や、ヘルタースケルターの煌びやかに飾られた一角に気をとられたから、卒業文集を見つけたのは二巡目だった。隅っこ中の隅っこにあった。小津についての文章を見つけたのも二巡目。自分は今、絵よりも文章に興味があるのだなぁ。
小津は好きだけど、よく知らない。3本ぐらいしか観てない。よくわかんない。と前置きしながら、小津映画は家族や東京を丁寧に描いて、あらゆる物語が含まれているように見えるけど、実際は何も描いていない。けれど、すごくフェティッシュな映画、フェティシズムの人だと思う。と、一度ざっと読んだだけだからうろ覚えだけど、岡崎京子はそう書いていた。私が映画に深入りするきっかけが10代で観た「麦秋」で、完璧な映画に思えたけど、そう思う理由がさっぱりわからず、わからない。ということは自分にとっては何より魅力的なことなので、対象のことはよくわからないけど、自分が惹かれる理由はよくわかる。という状態が大人になっても続いている。その頃、確かNHKで観た番組、吉田喜重監督がナレーションをしていたと記憶している小津についての番組を観たことで拍車がかかった。畳に座って複数の男が卓を囲む。短く切ったセリフを話す人物を中心に据えてローアングルから撮るショットの切り返し。男たちの座る位置、誰が誰の隣かを図解し、セリフと視線の行き先を矢印で追う検証をしてみると、AはBに向かって話しているはずなのに、視線はBのほうを見ていない。視線の矢印の方向が、会話のキャッチボールの方向と合わない。あ、よくできた虚構はこうやって作られているのか。と目から鱗だった。
最近、若尾文子のインタビューを読んでいて、小津監督についての回想のコメントの中に、浴衣の柄などは小津さんが選んでいるのか?という質問に「全部。頭の形から、分け目から小津さんが選んでます。置いてある美術品と一緒です。全部ご自分の決めたとおりに。だから手紙を書くときに鉛筆をなめるんですけど、その舐め方まで。こうやって次に鉛筆を舐めて…と細かかったです」と答えている。ひっ!髪の分け目まで!
登場人物たちが皆、小津好みに仕立てられ精緻に操作される人形ならば、時々ギクリとする女優たちの装いもすべて計算尽くで、「秋日和」の原節子の爪がギラリと光るようにわざわざパール入りのネイルが塗られていることも、強くギラリと光るように撮られていることも、すべて計算尽く。たしか「宗方姉妹」だったか、和服を着た田中絹代が、あの小作りな顔立ちやしっとりした物腰に似合わない、夜の匂いが微かにする黒いレースの手袋をつけているのも、すべて計算尽く。女優たちのそういった装いに不用意に出くわすと、小津を観ているときの不穏な気分が増す。
と、いうようなことを、3本しか観てない。よくわかんない。と書く岡崎京子も気づいていて、初めて小津について意見が一致する人に出会った。フェティシズムの映画、と書いた後には「晩春」の原節子に触れ、紀子は内側にどくどくと熱いものを持つ「裂け目のマグマ」を持つ女。と、そんな表現だったと思う。そう、パールの爪の女も黒いレース手袋の女も「裂け目のマグマ」の一派であって、考えてみれば小津映画にはそんな女はぞろぞろ出てくるではないか。小津が演出で精緻に動かそうとしても女優自身の抗いきれない何かが透けてみえる…といった種類の発露のしかたではない、あきらかにそんな女として描きながらも動きを封じ、ちまちま整えられた美しい箱庭に閉じ込めて愉しむなんて、小津はやっぱりフェティシズムの人だな、と頭いっぱい考えながら展示を見終えた。
これを書くために小津フィルモグラフィをまとめた本を横に置いてめくってみたのだけど、「晩春」は田中絹代がゾンビみたいな「風の中の牝鶏」と、黒いレース手袋の「宗方姉妹」の間の一本だったと知って軽くゾッとした。小津監督、この頃、何かあったのですか…。
岡崎京子は私にとって、いつか小津について話を聞いてみたい、語り合ってみたい人の筆頭であり続けるだろう。「晩春」の原節子、岡崎京子の漫画に出てきそう。紀子が平坦な戦場を生き延びる女に見えてくる。実際、小津を匂わせる作品もいくつかあった。他の作品を振り返ってみても、あんなに小津を語るのが似合う人はいない。