薄曇の土曜日、ラピュタ阿佐ヶ谷で、こちらの特集より、中村登監督「河口」(1961年/松竹)を。
宣伝文、ポスターに書いてあった。「才気と美貌の女性が男にみがかれた時…絢爛たる大都会に恋多き女は生きる!」主演は岡田茉莉子。
財界の大物の愛人だった岡田茉莉子が喪服で葬儀に参列し、愛人生活を清算した後の道行を海辺で回想する導入…という理解で合っているのだろうか。愛人面接(?)で、このような人生を選択するのは生活のため、家族を養うため、とキッパリ言ってのけた岡田茉莉子のポテンシャルに、財界の大物の金回り愛人まわりを管理する男・山村聰が目をつけ、愛人稼業から足を洗う決意をした岡田茉莉子に、では画商にならないかと新ビジネスを持ちかけ、銀座にギャラリーを構え、資金繰りのためか多情ゆえか岡田茉莉子は男に手を出し…という筋書き。
宣伝文句にある「絢爛」は岡田茉莉子の衣装(洋装は森英恵デザインと思われる)、絵画、銀座、京都、奈良と贅沢にロケで撮られた映画であるせいか。東野英治郎との追いかけっこで数寄屋橋界隈が映るのが楽しい。不二家は昔からあの場所にあったのだなぁ、など人物より背景がくるくる動くのが楽しくて注視。
しかし物語には、ぐわんぐわん振り回されているうちに終マークがどーんと出て呆気にとられた。岡田茉莉子の人物造形に迷いがあって、美貌と金を交換し画商稼業を渡り歩くドライな女になりきれず、男に対しても金づるにしたいのか、愛が欲しいのか、体が欲しいのか混乱している。大阪のおっさん(東野英治郎)を相手にする理由が「男の体が欲しかったのが半分」など言ってしまうし、貿易商(杉浦直樹)には純情なところも見せてしまうし、ただの面倒な女みたい。この古めかしいメロドラマっぽさは松竹らしいというか、大映で増村保造が撮ってたら。もしくは川島雄三、あるいは市川崑…。思い返してみれば、お焼香する岡田茉莉子の手の爪が、喪の場面に不似合いな艶やかなピンクに塗られていて、冒頭から主人公のよくわからなさ、言動の辻褄の合わなさは提示されていたのかもしれない。
ブレを感じるのは岡田茉莉子を中心に観るからで、相棒たる山村聰の視点で観てみると辻褄が合うのでは。鹿島茂の、確か「悪女の人生相談」という著作で、曰く男は2種類。モノを愛する男は女を愛さない。女を愛する男は他の女も愛する。という名言(迷言?)が登場した遠い記憶を思い出し、この映画の山村聰はモノを愛し女は愛さない男の典型、けっこうな美術オタク、絵なんて何もわからない岡田茉莉子に画商になるように仕向けるのだって、彼女を使って己の趣味と実益の両立を実現したい密かな野望のためだもの。そう考えると「男は仕事と恋愛を分けて考えられるけど、女はすべてを恋愛の延長上においてしまうからダメだ、けれど君は他の女とは違う!」とハッパをかけるのも、岡田茉莉子が男によろめくたびに、キーッ!脇が甘い!とあたふたするのも合点がいく。あたふたっぷり、アニメキャラみたいで可愛い。あー!いやだー!ってあたふたする山村聰のLINEスタンプ欲しい。
この時代の日本映画、もちろんそれ以前に比べると人物造形のバリエーションは豊かになったとはいえ、男は家庭を持ち家長的役割を担い、女は主婦多数、職業婦人少々、玄人少々といった配分で、この映画の家庭の香りの一切しない美術オタク・山村聰のようなキャラクターはとても新鮮。ブレてる岡田茉莉子より山村聰を楽しむ映画と言えるかもしれない。岡田茉莉子がよろめく男たちは総じて「女は愛する男は他の女も愛する」男たちで、そんな男たちとの間を飛び交っていた金が行き場を失った時、投げ棄てられた金はようやく画商ビジネスに向かい、万札の雨を浴びながらキャー!この絵も!あの絵も買える!と狂喜する電話の向こうの山村聰は性的興奮に近い何某かを味わう。呆然が去った後は、茉莉子、ほんまに面白い男は一番近くにいる聰はんやから余所見せんと聰はんの言うこととりあえず聞いとき。もっと商売うまいこといったらもっとまともな男が寄ってくるかもしれん、それまでは辛抱の子やで…河口で黄昏てる場合ちゃうで…と耳元で囁きたい気分に。
観る前、あらすじを読んだ時は有吉佐和子あたりの原作かと思ったけど、意外にも井上靖だった。原作では山村聰の役は性的不能という設定らしく、映画において何ひとつ語られない山村聰の私生活に岡田茉莉子がフフンという表情でツッコミを入れた時の尋常ではない慌てふためきっぷりは、その設定が背景にあったのだろうか。モノを愛する男は女を愛さない…の経緯がそんなところにあるとしたら、映画の味もまた変わりそうな。