ジョニー・トー祭。これはワイ・カーファイ監督との共同監督。先週の1本「MAD探偵」。
短い映画だけど、筋書きを掴むのに時間がかかってしまい、冒頭を3回ほど見直して、主人公が神がかった能力を持つ探偵(元刑事)ながら精神を病んでおり、容疑者も性別も年齢も違う7人の別人格を抱える多重人格者という設定をようやく理解して続きに進んだらあれよあれよと最後まで。多重人格の7人分、1人の俳優が演じ分けるわけではなくて、ちゃんと7人別の俳優がキャスティングされてる。MAD探偵は他の人には見えないそれらの人格が見え、そして別れた元妻も別れる前のラブラブ状態で彼のそばにいたり、虚実が自在に入りみだれる複雑な構造。ジョニー・トーは普段、脚本を準備しないのが当たり前らしいのだけど、これだけ練られた物語だからさすがに今回はあるのかな、と思えば、やっぱりなかったらしい…。撮る側も撮られる側もよく混乱しなかったね…。
最初の数分で私が混乱して次に進めなかったのは、主人公が耳を自分で切り落とす場面があったからなのだけど、「ゴッホがもし、探偵だったら」というこの映画の設定を説明するのに不可欠の場面だったらしい。映像特典のインタビューで2人の監督が語ったことには、ゴッホは天才だが、彼の素行は周囲に理解されない。もしゴッホが探偵なら独特の方法で事件を解決したはず。だから、この映画は「ゴッホがもし、探偵だったら」という設定で作った…と。え、何よくわからんこと言ってんの…?と思わずインタビューも何度か巻き戻して観た。よくそんなこと思いつくね…そんな発想から生まれた物語がきちんと映画の体裁を保っていることに驚く。ジョニー・トーなら魚屋が魚を3枚におろすのを見て着想を得て、人間がもし3枚におろされたら…って物語も映画として整えられそう。まだ観てないだけで、既にもう撮ってたりして。ほんまに何でも撮れるのね…もはやあなたがMAD監督…!
最後の鏡の場面のもたらす映画的陶酔は、同じく混乱しながらも鏡の部屋に辿り着き映画的陶酔をもたらしたオーソン・ウェルズ「上海から来た女」を思い出した。一度観ただけでは何割も捉えられていないはずなので、次は相関図でも書きながら観ようかな。